2012年07月

1日ー10日  11日ー20日  21日ー31日
 
 2012/07/30 (月) 昨日の午後

オープンカフェに置いてあるハイビスカスが花開いた。



「我が心の沖永良部」では、アダンと同じくあちこちに見られる花だった。沖永良部島が無性になつかしい。




昨日の午後は蓮如上人記念館において、「蓮如イスム文化講演会」が開かれた。講師は芳賀徹氏でタイトルは「日本文化興隆に向かって 芸術の国日本」。


氏は「もののあはれ」をキーワードとしてしゃべった。

石走る 垂水の上のさわらびの
      萌え出づる春に なりにけるかも (志貴皇子)

を引き合いに、古今和歌集や新古今和歌集のレトリック世界とは違う万葉人の素朴な写実主義をたたえ、それは古代日本の原始アニミズムの流れを汲むものだと言っていたが、それが蓮如の果たした役割とどういう関係があるのかよくわからなかった。       


講演のあとはシンポジウム。


パネリストはあわら市長、加賀市長、勝山市長その他で、テーマは「越前加賀地域に息づく宗教文化」。
司会がやや早口で語尾がよく聞きとれず若干難渋したが、パネリストたちの話からは、個々の自治体が今から押し出そうとしている物語の片鱗がみえて面白かった。


さかのぼれば、加賀国は弘仁12年まで越前国だった。ぼくが時々加賀の海をみるために(秘かに)車を走らせるのも元々は同じテリトリーだったという潜在意識がDNAとしてあるからかもしれないし、勝山とか坂井とかあわらとか永平寺とか加賀とかの自治体区分も人類の歴史全体からいえば後世(こうせい)にできた区分にすぎない。


知るとは どんなに小さい物事も
いかに全体と結びついているかを
理解することだ  「アラン・幸福論」


その意味で、
この文脈で、「小さい物事」をあわら市に、全体を「越前・加賀地域」になぞらえることができると思う。


 2012/07/29 (日) 秋桜に水遣りをする私   


英五輪、女子サッカー予選リーグの対カナダ戦、男子サッカーの対スペイン戦、どちらも面白かった。


僕が五輪に熱中したのは’60年の東京五輪まで。砲丸投げのタマラ・プレス、マラソンのアベベ、水泳のドーン・ショランダー、ソ連女子バレーのエースストライカー・ルイスカリ、女子体操の美人選手チャスラフスカ、陸上男子100mのボブ・ヘイズ、そしてその100mで確か準決勝まで進出した飯島、女子80m障害の依田、男子柔道重量級決勝でヘーシンクに破れた神永などいろいろ思い出されるが圧倒的に印象深いのはマラソンの円谷だ。


代々木の国立競技場へアベベに次いで二位で入ってきたものの、最後の一周で英のヒートリーに追い抜かれてしまった。
後年(こうねん)、円谷は御両親宛の遺書(・・とろろおいしゅうございました。・・)を残して自殺する。
日の丸を背負う重圧は今も昔も変わらないのだろうが、日の丸からすけて見える国家像には随分と違いがでてきたように思う。


僕は左でも右でもない人間だけれども、五輪会場に流れる「君が代」を聴いたりポールに掲揚される日の丸を見たりする時、体に震えを感じる。この高揚感は何故出てくるのだろうか。


話は戻るが女子サッカー「なでしこ」の対カナダ戦パスワークは秀逸だった。しかし容姿はカナダチームが優っていたと想う。容姿というのは単なる顔のツクリではなくって、ゴールした時の喜び方、ゴールされた時の悔しがり方のなかに見える優雅さのことだ。


話は変わるが東京五輪から8年後のミュンヘン五輪は、五輪史上最大の悲劇を生んだ。イスラエルの男子レスリングチームがパレスチナゲリラに襲われ人質となった。ゲリラはを仲間の釈放を人質解放の交換条件としたのだが、独はこれを拒否、特別チームで救出を試みたのだが失敗。
人質・ゲリラの全員が死亡という最悪の結果となってしまった。今から40年前の悲劇だ。
というようなことを考えつつ今朝のテレビを見ていて、女子重量挙げ48kg級で三宅宏実の銀メダル獲得に感動した。父親はメキシコ五輪で銅メダルだったから、父親を超えたことになる。

「ウーン素晴らしい。俺も女体挙げだったら自信があるのだけどなあ・・」と思っているところに、自衛隊出身の男性から電話があったのでその思いを申し上げたところ、「牧田さんの場合はチャスラフスカ挙げではないですか?」と言われて素直に頷いた。


 2012/07/28 (土) もう週末か  


昨日の午前中は、坂井地区介護保険広域連合議会・総務環境常任委員会を膨張。
付託議案は
 第15号  平成23年度坂井地区環境衛生組合一般会計歳入歳出決算認定について
 第16号  平成23年度三国あわら斎苑組合一般会計歳入歳出決算認定について
 第17号  平成23年度三国あわら斎苑組合代官山墓地特別会計歳入歳出決算認定について
 第18号  平成23年度坂井地区水道用水事務組合一般会計歳入歳出決算認定について
 第19号  平成24年度坂井地区広域連合一般会計補正予算(第2号)
 第21号  平成24年度坂井地区広域連合代官山墓地特別会計補正予算(第1号)
 第22号  坂井地区広域連合広域計画の変更について


午後は、介護保険常任委員会.。
付託議案は
 第20号  平成24年度坂井地区広域連合介護保険特別会計補正予算(第3号)


夕刻に事務所へ戻った。
下着が汗ばんでいたので一風呂浴びたのち、オープンカフェの鉢に水遣りをした。日差しが弱くなってきたのでデッキチェアに座り白ワインをひとのみした。あるひとから「オープンカフェでは絶対ワインよ」と言われたためである。


辺りが闇に包まれる頃、何故か良寛さんの言葉が頭に浮かんできた。


形見とて何か残さん 春は花
     山ほととぎす 秋はもみじ葉 

・死んでいくぼくたちが次世代に残さなければならないものは変わらない自然である。よもや原発事故によって汚染された空気であってよいはずがない。


災難に逢う時節には 災難に逢うがよく候
死ぬ時節には 死ぬがよく候

・この言葉には深みがある。字面で受け止めては、反感をかうだけだ。


盗人にとり残されし 窓の月
・庵に入った盗人も窓の月だけは盗むことができない。自然は人間の背丈を大きく超えた存在である。


欲なければ一切足り
求むるあれば 万事窮す

・金持ちはますます金持ちになろうとする。際限がない。これほど悲しい人生はないだろう。


 2012/07/27 (金)  昨晩思ったこと


昨晩の事務所は、手話サークルで賑わった。
来た人のうちの一人はぼくと同年代の健聴者だが、事故で鼓膜が破れ聴力障害が進行しているという。
必要とはいえ、60歳をすぎてから手話を覚えるのは大変だろう。あせらず余力をもって少しだけ頑張ってほしい。


これは、ぼく自身に対する自戒でもある。
脳内出血で倒れてから三年以上が経過した。既に脳血管破損の痕跡は無くなり、その意味では完治したのだが、後遺症は残っている。
右足の動きは思うにまかせれず、右手の指の動きは繊細さを失った。発語には常によどみがつきまとう。


今後の生活に関していろいろ考えた末の結論は、「人間あせるべからず」である。


ということで、オープンカフェのチェアに座って、一杯の熱々珈琲を飲んでいる。


よいコーヒーは
天使のように澄んで
悪魔のように黒く
地獄のように熱く
恋のように甘い
  タレーラン


<ONT color="#ffffff"> 2012/07/25 (水) 坂井地区広域連合議会7月定例会初日


昨日は,午後1時半から「坂井地区広域連合議会7月定例会」の全員協議会で、3時から本会議が開かれた。


議案は以下の通り
議案
 第13号  専決処分を求めることについて
(平成24年度坂井地区広域連合介護保険特別会計補正予算(第2号))
 第14号  平成23年度坂井地区介護保険広域連合介護保険特別会計繰越明許費繰越決算書の報告について 
 第15号  平成23年度坂井地区環境衛生組合一般会計歳入歳出決算認定について
 第16号  平成23年度三国あわら斎苑組合一般会計歳歳出決算認定について
 第17号  平成23年度三国あわら斎苑組合代官山墓地特別会計歳入歳出決算認定について
 第18号  平成23年度坂井地区水道用水事務組合一般会歳入歳出決算認定について
 第19号  平成24年度坂井地区広域連合一般会計補正予算(第2号)
 第20号  平成24年度坂井地区広域連合介護保険特別会計補正予算(第3号)
 第21号  平成24年度坂井地区広域連合代官山墓地特別会計補正予算(第1号)
 第22号  坂井地区広域連合広域計画の変更について

一般質問議員は5名だった。
 川畑 孝治  「すくすくさかい」について
 山川 知一郎  介護保険の実態と基本理念・方針について
 牧田 孝男 介護保険の介護予防事業に関してその成果は上がっているのか? 
 永井 純一 居宅(在宅)介護について 
 畑野 麻美子  水道水を使った小水力発電について


ということで、私のした質問の骨子を紹介すると


○第一回質問

・今年の四月から第5期介護保険事業が始まった。
・第5期の特徴として施設介護から在宅介護へのシフトが進行している。
・加えて介護予防事業の大切さが、数年前から言われており、介護予防事業については、第3期事業計画期間(2005年)の介護保険法改正で制定されている。
・確かに介護予防のさまざまな手立てを普及させることは、介護保険料の値上げを抑制するのに非常に有効である。
・介護保険に限らず、保険というものは全て、多数の者が保険料を出し合い、ことが発生したときには、生じた損害を埋め合わせるため、保険金を給付する制度であり、当然、被保険者がその適用をうけなくて済むのであれば、保険料の値上がりが抑制できることは当然である。
・加えて、団塊の世代が高齢者の仲間入りをする時期も目前にせまっている。私自身が典型的な団塊の世代であり、その意味でも予防効果を上げることが急務であることを自らの問題として痛感している。
・又、現状をみると、要介護の認定をうけるのは、高齢者のなかでも後期高齢者つまり75歳以上が格段に多いことが言える。その意味ではこれからの10年間において介護予防を実践することが勝負であると思っている。


そこで、質問したいことは
○現在の時点での予防事業としてどのようなものがありそれらの進捗状況はどうであるか。
又、その成果は出ているかのかどうか。
についての説明をしていただきたい。
○又、この介護予防事業の、今後の展望をどう考えているのかを説明していただきたい。

そのあと、理事者側の答弁があり、再質問があり、それが何回か繰り返されるのだが、それを記憶で文字化することは不可能だし、できたとしても、臨場感をうつしだすことはできない。
やはり、あわら市議会と同様にケーブルテレビ放映あるいはインターネット配信が必要なのではないだろうか。


 2012/07/25 (水) 念ずれば花開く    


昨晩の事務所には、「原発を考える」のテーマで7人が集まった。
何かの集まりがあると、どうしてもこれくらいの人数になる。
私の事務所は設計室を兼用しているので、ソファーに座れる限界の数値だ。より多人数が座れるようにする為には、どうしたらいいか。
(知る人ぞ知る)隠れた建築家である私が考えて解決しなければならない課題である。
それはさておき
オープンカフェのカンナが花開いた。



ゴーヤが花開いた。



「念ずれば花開く」(坂村真民)  である。


 2012/07/24 (火) 夜明けに熱々珈琲を飲みながら   


昨日の午前中は、福井佼成議員懇話会が開かれた。
第一部の≪平成24年度総会≫に引き続いて第二部の≪研修会≫の講師は、立正佼成会 福井教会長・ 坪田浩一氏。


「東日本大震災によって多くの方々が最愛の人を奪われ、住み慣れた故郷を離れ、苦難の生活を余儀なくされています。立正佼成会は、犠牲となられた方々の御霊の安らかなることを祈るとともに、その家族や親類の方々に寄り添い、精神的・物質的支援に務めてきました。被災地の方々は懸命に復興への道を歩まれていますが、その悲嘆と苦悩は、言葉では言い尽くせないほど大きなものがあると思います。


とりわけ、東京電力福島第一原子力発電所事故により、福島では多くの方々が生活や家庭の基盤を失いました。事故発生直後の混乱と不安の中で、それまで地域社会で育まれてきた人と人とのつながりは引き裂かれていきました。胎児や子どもへの放射線の影響を心配しているご家族は数えきれません。多くの母親が今も胸を痛めています。また、今回の事故は近隣諸国をはじめ世界の人々に大きな不安をもたらし、未来世代に計り知れない多大な負担を残しました。


原子力は「未来のエネルギー」と言われ、私たち国民もそのその恩恵を受けてきました。しかし、ひとたび事故が起きれば、甚大な被害をもたらすことを思い知らされました。経済的な豊かさが人間の幸せの源泉であると信じ、原発の負の部分から目を背けて、その依存度を高めてきた責任は私たち一人ひとりにあります。私たちに問われていることは、原子力発電によらない真に豊かな社会を可能な限り速やかに築きあげていくことです。そのためには、より安全性の高い再生可能エネルギーの開発と活用に叡智を結集しなければなりません。しかし、一番大切なことは、多くの犠牲の上に際限なくエネルギー消費を拡大してきた価値観や生活スタイルを見直すことです。今こそ、過剰な消費を抑えた「少欲知足(足るを知る)」の心を養い、簡素な生活の中に幸せの価値を見いだす最大の機会であると考えます。


世界は今、文明の転換を迫られています。これまでの経済的・物質的豊かさを求める生き方を続けていては、限られた地球環境を守り、未来世代によりよい社会を残していくことはできないでしょう。また、貧富の格差が広がる今日の経済や社会のあり方は、人類全体にとって決して幸せなものではありません。私たちの生き方のものさしを「共生」や「自然との調和」、すべての人が安心して暮らせる公正な「分かち合いの経済」などの実現に変えていかなければなりません。


立正佼成会は、すべての命を尊び、悲しみ、自然と人類との共生に基づく心豊かな平和な社会の実現に向け努力してまいります。これこそが今、仏教徒として私たちの果たすべき菩薩行と信じるものであります。」


青の部分がキーワードだろう。


僕がものごころついてから(特に70年代以降)、いろんな公害を目にしあるいは聞いてきたが、結論として言うならば
「公害は自然の病気で、その病原菌は人間である」。


 2012/07/23 (月) 無題  


昨日の午後は、国際交流会館で、原子力バックエンド問題勉強会。講師は馬淵代議士と石井代議士だった。





原発の話は聞けば聞く程複雑だし既に脳が軟化しつつあるぼくには理解できないことが多いがそれはともかく、40年前に福井県が原発銀座と呼ばれるようになった頃から「福井県はなんと悲しい道を選択してしまったのだろうか」と悲嘆していたし、その頃頻回にあった敦賀での反原発デモにもでかけていた。
敦賀生まれのぼくが「ふるさとの海と空気を人為的なもので汚してほしくない」という思いをずっと持ち続けているうちに、福島でとりかえしのつかない事故が発生してしまった。


人間は愚かだ。
というようなことを考えているうちに、講習会は終了。
帰途、コメリパワーで金魚を4匹購入した。
自宅裏のオープンカフェに置かれているメダカ水槽に4匹を放流した。




先住民族である18匹のメダカと、新入り民族である4匹の金魚たちは、仲むつまじく泳ぎ回っている。
アメリカ西部開拓史との違いが歴然だ。人間は愚かだ。


 2012/07/22 (日) 昨日の一日


昨日は、新聞配達者の携帯電話で起こされた。
「高塚の道路が冠水で大変や。すぐ行って」と言う。
 
確かにひどい。
玄関先にまで水がきている友人宅を見舞いした。午前6時半頃には水が引き始めたが、それにしても、消防署の皆さんはご苦労なことです。
午前8時、湯のまち公民館駐車場に、「ふるさと語ろう会」のメンバー10人が集合。マイクロバスに乗り込み、鳴鹿大堰に向かって出発。
案内は、丸岡町在住の北川賢一氏。
 

小和清水でスケデュールを聞いてから、一路大堰へ向かった。
 

午前11時から、鳴鹿公民館で北山氏の講演。
 
そのあとは質疑応答で12時に我々は北山氏と別れた。
「北山さん、謝々」

布久漏神社(丸岡町北横地)。延喜式神名帳にも記されている歴史の古い神社。継体天皇の娘である円媛命が建てたという由緒を持つ。神社の場所は、神の使いの鹿が憩った場所に建てられた祠の跡。


福井坂井平野を見守るよう丸岡・松岡古墳群がある(4世紀後半)。この時代ごろから鉄製農具が使われはじめ、水路を引く灌漑農業が始まり、農業生産は飛躍的に伸びた。権勢を誇った大首長たちの支配力の源は福井・坂井平野の大地と水がもたらす豊かなめぐみ。(507年継体天皇即位)
743年墾田永年私財の法が発令され、開墾地は荘園となった。坂井郡にあった桑原庄、溝江郷、予見庄などの荘園は開拓に必要な水を求め、溝(水路)を掘り、五百原溝につなげ、水を引いた。この開拓は奈良東大寺によって進められ、新しくできた田畑は東大寺の荘園となった。やがて荘園の支配者は、東大寺から興福寺や春日神社へと移り、1110年、日本で最も古い大規模水路の一つとされる十郷用水がつくられる。水の流れをつくることは時代の流れをも左右する。この十郷用水が坂井平野の生産力を大きく高め、やがて多くの用水がここから分水されていく。その流れは、千年後の現代の生産基盤になっている。


時は平安末期。坂井平野の多くは春日社興福寺の荘園だった十の郷に水を引くためつくられたとされ、900年後の今もなお坂井平野の大動脈を担う。当初の十郷用水はその後、磯部(不詳)、高椋(1453年開削)新江(1625年開削)と分流されていき、江戸時代には約10万石を生み出す生命と恵みの源となっていった。


諸国を旅していた加賀浪士、渡辺泉立は野中山王(丸岡町)を訪れた。鰐淵家(現・高椋家)に身を寄せた泉立は、山村を歩き回り、雑草地をなんとか開拓できないものかと考えた。(注 昨年ぼくはこの高椋家を訪れた。あるじの鰐淵氏は阪大教授をしておられたが既に亡くなられ、寡婦が家を守っている。品のいい奥さんだった)。
九頭竜川から西へ北へ、農民たちの悲願を運ぶ用水路網は次々と延びていった。その一方、用水路の要となる取水口の十郷大堰は、越中三叉という様式の簡単なものだった。三角すいの組みやぐらに木の枝を置いた原始的な堰は、大雨のたびに破壊され、修復は農民に大きな負担を強いた。
もっと頑丈な堰をつくれなかったのか。
そこには、命の水を巡る切実な事情が見え隠れする。
十郷大堰の下流には芝原用水や御陵用水など、十郷大堰の「漏れ水」を導水している用水取水口があり、頑丈な大堰をつくり取水効率を高めることは、これら下流の用水領域の農民にとっては死活問題だったのだ。


昭和22年、農業用水施設として全国で初めてのコンクリート堰の建設事業が採択される。
三角すいの簡素な十郷大堰は鳴鹿堰堤名付けられ、堰堤273m、可動ゲート5門を備えた近代的堰堤へと生まれ変わることとなったのだ。工事期間は実に8年余。昭和30年、完成した。
「千年の悲願
・わずか十の村から始まった用水は江戸時代には118ケ村、十倍にふくれあがったが、水の総量は変わらない。
・十郷用水の末端区域である芦原町内だけでも、江戸時代、約三十回の水利紛争が記録されている。
文化十年には死者が出て、江戸出訴にまで発展した。 
・芝原用水=御上水
結城秀康が越前藩の初代藩主になった頃(1601年)城下町の飲料水と掘用水の確保を主目的に開削した。江戸の神田上水(1590年)と並んで日本で最も古い水道。
・昭和47年から始まる国営坂井北部地区総合農地開発事業では、鳴鹿堰で取水した九頭竜川の水を、四十数メートルも標高の高い丘陵地上までポンプで運ぶというもの。
・新しい堰は、旧堰の下流160M、堤長311M、魚道なども含め六門の可動ゲートを設置した堂々たる大堰であり、平成十二年に完成。