2012年09月

1日ー10日  11日ー20日  21日ー31日
 
2012/09/30 (日) 熊谷氏について



昨日の午前中は某氏宅にいたのだが、偶然というか、某氏宅の敷地が先日のブログで言及した熊谷氏宅の元の敷地だったとのこと。
某氏の和室に飾られていた揮毫軸の写真を撮らせていただいた。






某氏から熊坂区誌をお借りして、帰宅。今、一生懸命読んでいる。


2012/09/29 (土) 無題 



昨日の朝日新聞3面に、村上春樹寄稿「魂の行き来する道筋」が載っていた。


「・・・この二十年間ばかりの、東アジア地域における最も喜ばしい達成のひとつは、そこに固有の「文化圏」が形成されてきたことだ。そのような状況がもたらされた大きな原因として、中国や韓国や台湾のめざましい経済的発展があげられるだろう。各国の経済システムがより強く確立されることにより、文化の等価的交換が可能になり、多くの文化的成果(知的財産)が国境を越えて行き来するようになった。共通のルールが定められ、かつてこの地域で猛威をふるった海賊版も徐々に姿を消し(あるいは数を大幅に減じ)、アドバンス(前渡し金)や印税も多くの場合、正当に支払われるようになった。
僕自身の経験に基づいて言わせていただければ、「ここに来るまでの道のりは長かったなあ」ということになる。以前の状況はそれほど劣悪だった。どれくらいひどかったか、ここでは具体的事実には触れないが(これ以上問題を紛糾させたくないから)、最近では環境は著しく改善され、この「東アジア文化圏」は豊かな、安定したマーケットとして着実に成熟を遂げつつある。まだいくつかの個別の問題は残されているものの、そのマーケット内では今では、音楽や文学や映画やテレビ番組が、基本的には自由に等価に交換され、多くの数の人々の手にとられ、楽しまれている。これはまことに素晴らしい成果というべきだ。
たとえば韓国のテレビドラマがヒットしたことで、日本人は韓国の文化に対して以前よりずっと親しみを抱くようになったし、韓国語を学習する人の数も急激に増えた。それと交換的にというか、たとえば僕がアメリカの大学にいるときには、多くの韓国人・中国人留学生がオフィスを訪ねてくれたものだ。彼らは驚くほど熱心に僕の本を読んでくれて、我々の間には多くの語り合うべきことがあった。
このような好ましい状況を出現させるために、長い歳月にわたり多くの人々が心血を注いできた。
僕も当事者の一人として、微力ではあるがそれなりに努力してきたし、このような安定した交流が持続すれば、我々と東アジア近隣諸国との間に存在するいくつかの懸案も、時間はかかるかもしれないが、徐々に解決に向かって行くに違いないと期待を抱いていた。文化の交換は「我々はたとえ話す言葉が違っても感動を共有しあえる人間同士なのだ」という認識をもたらすことをひとつの重要な目的にしている。それはいわば、国境を越えて魂が行き来する道筋なのだ。
今回の尖閣諸島問題や、あるいは竹島問題が、そのような地道な達成を大きく破壊してしまうことを、一人のアジアの作家として、僕は恐れる。
国境線というものが存在する以上、残念ながら(というべきだろう)領土問題は避けて通れないイシューである。しかしそれは実務的に解決可能な案件であるはずだし、また実務的に解決可能な案件でなくてはならないと考えている。領土問題が実務課題であることを超えて、「国民感情」の領域に踏み込んでくると、それは往々にして出口のない危険な状況を出現させることになる。それは安酒の酔いに似ている。安酒はもんの数杯で人を酔っ払わせ、頭に血を上らせる。人々の声は大きくなり、その行動は粗暴になる。論理は単純化され、自己反復的になる。しかし賑やかに騒いだあと、夜が明けてみればあとに残るのはいやな頭痛だけだ。
そのような安酒を気前よく振る舞い、騒ぎを煽るタイプの政治家や論客に対して、我々は注意深くなくてはならない。一九三○年代にアドルフ・ヒトラーが政権の基礎を固めたのも、第一次世界大戦によって失われた領土の回復を一貫してその政策の根幹に置いたからだった。それがどのような結果をもたらしたか、我々は知っている。今回の尖閣諸島問題においても、状況がこのように深刻な段階まで推し進められた要因は、両方の側で後日冷静に検証されなくてはならないだろう。政治家や論客は威勢のよい言葉を並べて人々を煽るだけですむが、実際に傷つくのは現場に立たされた個々の人間なのだ。・・・」と書いている。


2012/09/28 (金) もう週末か


この2、3日間、パソコンに不具合が生じて、ブログを更新することができなかったのだけれども、プロの助けを得てやっと復旧した。


ところで、昨日の来訪者から「あわら市庁舎に像の建っている熊谷五右衛門の功績をもっと市民に知らせてほしい」と言われた。





義理の兄からいただいた福井県大百科事典にはこう書いてある。


熊谷五右衛門 1865~1942(慶応1~昭和17)衆議院議員、県会議長、金津町熊坂生まれ。坪江村会議員、坂井郡会議員、坪江村長、丸岡町長を努め、県会議員として1839年(明治26)から通算17年在籍、衆議院議員在職中は杉田定一系の中心として活躍、九頭竜川の改修に尽力した。衆議院では北陸本線の牛ノ谷駅・春江駅の新設に尽力、1936年(昭和11)には全院委員長となった。


北陸本線の三国経由派を抑え金津経由を実現した杉田定一(杉田鶉山)の後継者と目されたところが重要。


↓ 昼下がりに加賀のとある場所で昼食を終え、窓外の緑を眺めやる私。



2012/09/26 (水) 本日は決算審査特別委員会


朝陽を浴びるオープンカフェ



寝覚めると肩が痛い。何故かな?と思ったのだがどうやら一昨日の「市議vs部課長」ソフトボール大会で、応援団長に推挙された私が40数年ぶりに「フレーフレー」をやったためのようだ。
応援のかいあって、白熱の試合は20対20(4回打ち切り)の好結果となった。


そのあとは芦原温泉で30数人が集っての飲み会。
体を動かしたあとのお湯割り焼酎は実にうまかった。つまみは唐揚げがうまかった。
午後9時過ぎに妻が車で迎えにきてくれた。
家に戻ってから「薩摩焼酎白波」を飲んでいた。つまみは「柿の種」だった。
せめて週一回の休肝日をつくらねば、と思う。


2012/09/24 (月) 本日は広報編集特別委員会



昨晩は来訪客6人。「原発を考えるあわら市民の会」次回開催に向けての打ち合わせ会となった。平均就寝時刻8時の私だが、来訪客のある時は勿論起きている。


いつも不思議に思うのだが、そういう時はずっと起きている。
昨晩も皆が帰った午後9時過ぎから目が冴えてきて、平成11年ものの果実酒を飲みながら、北方謙三著:「望郷の道」を読んでいた。


読むのに疲れて、テレビのスイッチをいれたら、「こころ旅」を深夜放映していた。芸能界一女性にもてる男と噂され自分でも公言しているあの火野正平が出ている番組だ。
初めて彼の語り口を聞いたのだが、「なるほど、これなら女性にもてるだろう」と、ぼくは思った。


彼は63歳、そしてぼくも63歳・・・頑張ろう。



2012/09/23 (日) 足ることを知らば



昨日のオープンカフェ来訪客のなかに手製の果実酒を持ってきてくださった初老の方がいた。
焼酎であろうが日本酒であろうがワインであろうがウオッカであろうがバーボンウイスキーであろうがテキーラであろうが紹興酒であろうがビールであろうがおよそなんの種類であれ、アルコール飲料を崇拝している私にはありがたいことだ。





そばに少しの美味しいお酒と、図書館で借りてきた一冊の本と、耳に優しい音楽と、目をなごませる植物がありさえすれば(そしてできればひとりの魅惑的な女性がいさえすれば)他に何を望むことがあろうか。


足ることを知らば 貧といへども富と名づくべし。
財ありとも欲多ければ 貧と名づく。(往生要集)


2012/09/22 (土) 昨日は議会最終日



昨日は議会最終日。追加議案が出てきたので本会議→委員会→全員協議会→本会議とスケヂュールはめまぐるしく動いた。議長は延長を宣言して、議会が終了した時、時計の針は午後6時を指していた。
この経過については、是非ケーブルテレビでご覧ください。


終了後早速事務所に戻り、オープンカフェの椅子に座った。
あたりは既に闇が立ちこみ始め、時折家路を急ぐ人の姿が見える。
あの人たちにとってきょうの疲れを癒す夕餉がありますように・・と私は祈った。


何種類もの虫の声が聞こえてくる。オープンカフェは完全に秋の気配だ。