2012年09月

1日ー10日  11日ー20日  21日ー31日

 
2012/09/20 (木) 三国湊



三国湊の沿革(人づくり風土記より抜粋


 三国湊は九頭竜川が日本海に注ぐ河口の右岸に発達した港町。土地に伝わる民謡「三国節」の一節に≪帯の幅ほどある街を≫とあるように、九頭竜川沿いに細長く約1、5kmほど町家が軒を連ねている。
九頭竜川は越美山中の油坂峠(福井県大野郡和泉村)付近に源を発し、大野市内で真名川を、勝山市内で滝波川を合流して日本海に注ぐ。和泉村東市布から河口まで流路延長は116kmの大河。増水時にしばしば氾濫する暴れ川だったことから、中世の絵図に≪崩川≫と書かれている。江戸時代の地誌では≪黒龍川≫と書かれている。
ちなみに、日野川は越美山地の三国岳付近に源を発し、今庄町・南条町・武生市・鯖江市・清水町を通り、福井市の大瀬町付近で足羽川と合流して九頭竜川に入る。
九頭竜川・日野川・足羽川の三川を福井県嶺北地方の市町村すべてに関わるところから、≪福井の三大河川≫という。この三大河川が最終的に一本の川となり日本海と接点を持つところが三国湊であり、扇の要のようなもので、地理的に見て十分に地の利を得たところといえる。そして、これらの川は、船で物資を運び、また、人間自ら移動する手段として、古代より人びとの生活と大きく関わってきた。加えて、三国湊は海路を利用できるので、経済交易の中心地となり商いの港として発達していった。


中世において三国湊は荘園の年貢米積み出し港とされ、津料(港湾税)を徴収していた。「朝倉始末記」の中に、朝倉義景が三国湊を訪れたときに問丸七人が出迎えたとある。中世後期には商人たちが組織をつくり、港の運営を図っていたことがわかる。江戸時代になると三国湊は福井藩の支配をうける。福井藩は越前国唯一の外港として保護に努め、津料の取立てなど様々な特権を三国湊に与えた。港の商人たちは藩の保護のもとで商業に励み、三国湊は日本海沿岸有数の港町へと発展をとげた。「町内治定改方記録」(三国町上西区有文書)は江戸時代の三国湊を知るうえで大変貴重な資料である。この中に一部の町内の成立のいきさつが書かれている。
「元新町は正保二年(1645)に人家が建った。この元新町に次々と家が建ったので二町に分け、元新町と下新町とした。木場町は慶安元年(1648)に人家が建った。川口御番所は正保元年に三国湊の町端から滝谷村との境へ引越した」などの記述がみえ、人口増加に対応するために新しい町建てを実施していったのだろう。
江戸時代初期にははぼ現在の町並みの原形が整った。それは日本海側の海運ルートとして西廻り航路が整備される寛文年間(1661-73)以前だった。そして、日本海を行き交う廻船が大阪と北海道の間で盛んに交易を行うようになると≪近年はこの交易船を北前船とよんでいる≫三国湊の商人たちは活発に海運業に乗り出し、三国湊は単なる越前国の玄関口ではなくなり、日本海交易の中継基地としての役割が大きくなった。
三国湊を代表する豪商に森田家と内田家がある。
森田家は織田信長の朱印状(朱印を押した許可証)や徳川家康の書状が伝わる三国湊では最も由緒のある家系だ。江戸時代には港の要職にあり廻船業で富を成し、明治時代にはいち早く廻船業に見切りをつけ銀行業・倉庫業に転換し、戦前まで福井県の財界の要職にあった。
内田家は元禄十六年(1703)福井城下から三国湊に移り住み、酒と麹の製造を商売に成功し、廻船業を営むとともに三国湊随一の商人にのし上がった。その内田家の繁栄ぶりを示すものに御用金の調達がある。
宝暦十年(1760)の約600両を皮切りに金高の大きいものをひろえば、明和五年(1768)600両、天明八年(1788)1500両、寛政六年(1794)1300両とある。福井藩の財政が逼迫するとともに用立てる金高はかさみ、江戸時代後期にはほぼ毎年のこととなり、三國湊の御用金調達のお達しが下ると内田家は最も大きい割合を負担した。明治時代中期に内田家は衰退する。その原因は貸付金の焦げ付きだった。


三国湊周辺の浦々では江戸時代の中頃まで搬送能力に劣る船が用いられていた。しかし、瀬戸内海で生まれた弁財船という型の船が登場すると、たちまち全国に普及するとともに、商品流通の時間を短縮し、また、遠方へ多くの物資を運べるようになり、江戸時代の商品経済の発達をうながした。
さて、船乗りたちは春先に大阪に旅たつ。預けてあった北前船の点検を終えると商品物資を買い込む。日本海側の浦々で必要とする砂糖・素麺・酒などの食糧・木綿・古着・足袋などの衣料、畳表・蝋燭・和紙・茶碗などの日用品である。そして出航してからは、瀬戸内海では塩を、小浜や敦賀などでは藁や筵を、三国湊では笏谷石などを積み込む。これらを中継の港や北海道で売り払い利益をあげると、帰りには北海道で買い入れた鰊・鰊〆粕・魚油・昆布・鮭・鱈などの海産物を積み込み、中継の港や大阪周辺で売り捌き、下り荷以上に利益を上げる。江戸時代後期では一回往復の航海で約一千両もの利益を上げた。
こうした北前船交易の最盛期は物資流通の規制が緩くなり、また北海道の鰊が建網の使用で大量捕獲されるようになった幕末から明治にかけての時期だった。
江戸時代の三国湊の海運活動の全貌は統計資料がないために知ることはできないが、明治四年(1871)三国湊と滝谷村が合併して坂井港となって以後の「共武政表」(明治十一年分)では、日本形船舶は188艘となっている。


北前船によって越前国の玄関である三国湊に運ばれた物資は、陸送される一部のものを除いてほとんど川船に積み替えられ、九頭竜川とその支流のうち交通の便の良い地点に設けられた荷下ろしも船着場(河戸とか土場とよばれた)へ輸送された。そこから別の川船に積み替えられたり、人馬によって陸送され、流域の村々へ届けられた。また、越前の各地で生産された米や商品物資はその逆のコースで三国湊から海路輸送された。各河川において物資集散の中心となったところを三国湊を起点としてたどってみる。
九頭竜川から最も早く分かれる竹田川には、布目の渡し・仏徳時の渡しが途中にあって、金津宿の市姫橋の下が終点だ。
貞享三年(1686)金沢から上方(京・大阪)へ行く荷物を、金津宿で川船に積み、三国湊を回って福井大橋で上げ、馬で送ろうとした。これを長崎宿の者が見つけ、違法だとして金津奉行所へ訴えた。川船による物資の輸送が便利とはいえ、物資輸送の基本は陸送による駅伝制度だ。幕府は交通及び交易の管理統制を行うために要所を宿駅と定め、馬を置き馬借がいた。そのルールが破られると宿駅の者は飯の食い上げである。そこで、先のような事件が起きないように川舟輸送と人馬輸送が競合しない諸規定が作られた。その内容を集約すれば、①川舟の運行範囲の限定②輸送方法の変更に対する制限③川舟で輸送する品物の限定。あくまで陸送業者の利益が損なわれないように配慮された。
次に、九頭竜川が日野川と合流する地点までには、川下より順に、山岸の渡し・布施田の渡し・高屋の渡しがあり、主に福井平野各村の穀物類が集まった。九頭竜川の西側の地方からは木材・薪・木炭などが運ばれた。
日野川との合流地点から勝山市方面までの間には中角の渡し・舟橋・合月の渡し・鳴鹿の渡し・栃原の渡し・小舟渡の渡し・新保の渡し・中島の渡し・箱の渡しなどがある。このうち三国湊からの運航の終点は舟橋だった。舟橋より上流には急流があり、鳴鹿の十郷堰堤や下荒井の勝山城下用水が三国湊からの直通運航を妨げた。したがって、舟橋より上流の集散基地は村から村へ物資を運ぶための船着場だった。たとえば、勝山市や上志比村から産出する石灰は川舟に20表も積んで川下の永平寺町鳴鹿まで運ばれ、丸岡町竹田から出す木炭は川向こうの松岡町の鋳物屋へ送られた。また、勝山市特産の煙草のように上流各地から三国湊を通じて海路輸送したい物資は、舟橋まで人馬で運び舟橋から川舟に積み替えて川を下った。川舟を操る場合、川を下ることは比較的簡単だが、川を上ることは大変な苦労だった。
約15メートルの貨物輸送用の川舟は船頭一人・水主二人・引き手(チャシあるいはチョウモチなどという)二人ほどで操る。上がりの時、引き手は六十尋(約90メートル)もある麻縄を艫(船尾)につないで川岸を歩いて引っ張り、船頭は舵をとって、水主は櫂を漕いだ。風があるときには帆を上げて風力を利用した。


2012/09/19 (水) ソーラー



本日の福井新聞のこの記事を読んで二週間前を思い出した。


二週間前の坂井地区広域連合議会全員協議会で、メガソーラーを三国町陣ケ岡で建設中であると聞き、協議会終了後早速現地へ行ったのだが場所がよくわからない。近くの山崎宅へ行き場所を詳しく教えてもらったのだが、その際山崎氏は、「ぼくのところでも小さいのつくるよ。自前でやると3割は安くなる」と言っていた。


私の場合、一年前に自宅を新築した時、屋根にソーラーパネルを設置するかどうかでいくつかのメーカーの代理店に来てもらって説明を聞いたのだが、「あと数年待ったほうがいい。パネルの太陽熱吸収精度は日進月歩」という感想を抱き、取り止めとした経過がある。


いずれにせよ、各地で自然再生エネルギー装置の設置は加速されて行くだろう。秋に予定されている環境対策調査特別委員会の視察研修先に、この類(たぐい)も選択肢のひとつとして入れるべきだと思う。


2012/09/18 (火) 小エビ

「敬老の日」だった昨日の午前中、ぼくはひとり観音川にいた。長靴をはき手網を持って浅瀬の水生植物群の下に潜む小エビを獲っていた。
下半身は水浸しになってしまったが、体長1cm内外の小エビが沢山獲れたので嬉しかった。少年の日に戻っていたぼくは獲れるたびにわくわくする。


小エビを持って帰り、オープンカフェに置いた水槽に入れた。既に入居しているメダカたちと仲良く共存だ。メダカの動きが水平方向であるのに対して、小エビの動きが垂直方向であることが面白い。





2012/09/17 (月) 早朝にモンステラを眺めながら





昨日は日曜日だったので、久しぶりに三国町港座にある喫茶店へ行った。熱々珈琲を飲みながら窓外を眺めると、通りを行き交う若い男女が多い。
三国町は歴史的に有名な町であることに加えて、観光客の誘致がうまいんだろうと思った。


それはともかく
一昨日に金小運動会に行った時、グラウンドの片隅に置かれていた奉安庫跡石碑をしばらくの間眺めていた。




・奉安殿、奉安庫、奉安所
奉安殿(ほうあんでん)とは、戦前の日本において、天皇と皇后の写真(御真影)と教育勅語を納めていた建物である。 御真影の下賜が始まった時期は、教育勅語が制定された後の1910年代であり、奉安殿の成立もその時期と推測される(小学校の奉安殿建築は1935年頃に活発化)。また学校への宿直も、この御真影の保護を目的として始められた面もある。

四大節祝賀式典の際には、職員生徒全員で御真影に対しての最敬礼を奉る事と教育勅語の奉読が求められた。また、登下校時や単に前を通過する際にも、職員生徒全てが服装を正してから最敬礼するように定められていた。

当初は講堂や職員室・校長室内部に奉安所が設けられていた。しかしこの奉安所の場合、校舎火災や地震などによる校舎倒壊の際などに御真影が危険に晒される可能性が高く、また実際に関東大震災や空襲、校舎火災の際に御真影を守ろうとして殉職した校長の美談がいくつか伝えられている。このため、さらに万全を期すために、校舎内部の奉安所は金庫型へ改められまた独立した「奉安殿」の建築が進められていった。前者の校舎一体型は旧制中学などに多く、後者の独立建築型は小学校に多く見られた。


日本が第二次世界大戦で敗れた年の1945年(昭和20年)12月15日、GHQの神道指令のため、奉安殿は廃止された。奉安殿の多くは、戦後に解体・もしくは地中に埋められ、御真影も全て奉還された訳ではない。しかしながら、解体を免れた奉安殿は現在でも全国各地に少数ながら残っており、倉庫として使われていたり、荘厳な外観を生かして神社や納骨堂に転用されていたりする。また沖縄の旧美里尋常高等小学校の奉安殿は半壊状態ながら、「戦争遺跡」として文化財に登録されている。戦前に建築された古い校舎・講堂を持つ学校では、校舎内に設けられた「奉安庫」が残る所もある。→インターネットより抜粋


2012/09/16 (日) 昨日の一日


昨日の午前中は、金津小学校運動会。プログラムNo5は来賓による「宝釣り」だった。スタートラインから景品の置かれている場所まで10m程を走るのだが右半身にマヒの残る私にはこれが至難の業だ。
同じ組で走る両隣の男女が心配し、私を支えてくれた。つまり私の右腕を女性が引っ張ってくれ左腕を男性が引っ張ってくれた。
次の組で走った男性から、「まきちゃんは被介護者運動会にでてるみたいやったぞ」と言われたがそれはともかく、人生は助け合いであることを痛感した。謝謝。


午後は、某氏と某某氏と某某某氏の四人で、東山区と川上区の境界地を目指した。
途中、里竹田にある横山神社に立ち寄る。



祭神が継体天皇だからこれは珍しい神社だ。


我々4人が境内をぶらついている時、珍しいものにぶつかった。写真では上部が欠けているが、砲身である。



凝灰岩に刻まれたかなり風化した文字を推量しながら読むと日清日露で戦士した兵士の慰霊碑だ。


我々の車は横山神社をあとにして北上した。




竹田川上流の平岩(ひらいわ)近くで数人の小学生が魚捕りをしている。いい風景だ。私も半世紀前には純真で可愛い少年だったのである。


我々は更に北上した。



竹田新道開削のために私財をなげうった渡辺茂十郎氏を顕彰する石碑の前に立ったのだが、


向こうに三昧が見える。



近寄ると太平洋戦争末期に南太平洋で戦死した若い兵士たちの墓が並んでいた。戦没者の慰霊は節目の日だけに行うものでは勿論ない。日々そうなのであって、その意味では道を行き交う人の目に触れる場所にあることが肝要だ。


2012/09/15 (土) 朝起きて


二日間の厚生経済常任委員会が終わって、昨晩は、芦原温泉で意見交換会が開かれた。交換会は約二時間。アルコールが入ったので帰りは1時間強を歩いた。ほろ酔い歩きは気持ちいい。


今朝目覚めと共に新聞を開くと、朝日30面に
リービ英雄「千々にくだけて」が載っている。


2001年9月11日、リービ英雄はニューヨークに向かっていた。経由地のカナダで足止めされ同時多発テロを知る。3年後に小説「千々にくだけて」(講談社文庫)を発表。松尾芭蕉の句からとった題には、カナダの島々と高層ビルの破壊が重なる。「沈黙の後に表現は生まれる」という作家が11年後の今、見つめるものは。


あの日、バンクーバーに着陸する前に飛行機の窓から島々が見え、かってよく通った東北の松島と似た風景が、海の向こうにもあるんだなあと軽い感想を持ちました。そして「千々にくだけて」という300年前の日本語と「broken into thousands of pieces」という英語が、同時に浮かんだんです。
足止めを食ったホテルでみたテレビは、静かに煙が上がる崩壊現場の映像を流すだけ。それが現実とは思えなかった。だから、電話で知人に「日本でも報道しているの?」なんて、ぼけたことをきいてしまった。
その町で、ただ「静かな」状態の「quiet」ではなく、音も動きもなく「stilness」を感じた。まさに、芭蕉の「しづけさや」です。
1日以上たってからテロップが入り始めた。9・11については文明、政治、国際関係、宗教・・・いろんな面からの解釈があふれえいる。
■     ■
僕はこの小説で、「解釈」を排した。
俳句の言葉は、解釈から逃れるのにも有効だった。もっとも、この体験をどう書くべきか、すごく迷いました。書き始めるのに2年かかった。日本語と英語を即座に訳す翻訳者を主人公にしようと決めた時、ようやく、小説になると思った。
文学における発見は、科学のように誰も知らないことを発見することではなく、みんなが何となく気づいていることに表現を与えることだと思う。直接状況を変えられるかどうかはわからないが、この小説も、世界が変わったかどうかということに一つの表現を与えられたのかな、と思っています。
表現すること、つまり文学は希望につながります。完璧な絶望状態なら表現はしない。書くことは、現代にも未来にも絶望していないことの印です。
9・11の後、僕は沈黙し、その後に表現が生まれた。沈黙という熟成が必要だったんです。だから、たぶん、いつかは3・11のことを書くのだと思う。
なぜ日本語で書くのか、いつも聞かれるけど・・・。一つ言えること
は、20代のころ、非西洋語の近代文学である日本文学に触れ、それは三島由紀夫や大江健三郎、安部公房でしたが、現代の文学だと思ったんです。
アラスカに住み、日本語で考えて書いた大庭みな子の影響も受けています。
■     ■
僕は今、中国と日本と米国の旅を日本で書いている。自らの普遍性をイデオロギー
と信じて疑わない米国と中国という大国。一方、日本人は日本を特殊な国で、国籍や民族が一緒でないと日本のことはわからないと思いこんでいる。これはメンタリテイの問題。でも日本文化は普遍的な魅力を持っていて、思っている以上に入りやすいですよ。僕は日本人として生きることができると叫んでいます。日本語で個人的な体験を普遍にすることを考え、一生、日本文学を書き続ける。
去年の夏、「星条旗の聞こえない部屋」が翻訳され、米国で講演会をしました。僕が意図的に日本語で書いたものを、別の米国人が英訳した究極的な言葉の越境。講演を聞いた米国人から、まるでネーテイブみたいですね、と言われたんですよ。(聞き手・吉村千彰)



2012/09/14 (金)  深夜に白ワインを飲みながら


メランコリックになった昨晩、ぼくは三国町滝谷出村へ車を走らせた。





界隈を歩いていると、瀟洒な蕎麦屋が目に入った。店に入ろうか入るまいか思案しているぼくに背後から遠慮がちの声。


「すみません。構図が絵になるので貴方の写真を撮らせてください」という女性の声だ。議員が「ノー」と言ってはいけない。ぼくはにこやかに「どうぞ」と答えた。


どうも味が濃厚過ぎる海老天ぶっかけうどんを食べてから店を出て若恵比寿海岸へ車を走らせた。十数年前、夕陽恋を経験した海岸だ。島田髪の女性は今も元気だろうか。


若恵比寿海岸から雄島へ車を走らせた。
赤い橋の袂に立つと潮の匂いが濃厚だ。満天の星がぼくをロマンチックな気分にさせる。


9時過ぎに帰宅。入浴を済ませてからオープンカフェに出た。秋の虫の大合唱だ。いつも思うのだが、オープンカフェには白ワインが一番似合う。



それはともかく
嵐山光三郎著「ぶらり旅・ほろ酔い編」を読んでいたら、那谷寺に関する項目にぶつかった。私が何度も訪れた場所だ。


以下が項目「那谷寺・生と死の宇宙がある芭蕉は鎮魂しに来た」です。



那谷寺は養老元年(717)に開基された真言宗の古刹で、神仏混淆の寺である。古くはイワヤ(岩屋)寺と呼ばれた。白山信仰の拠点となり、神様と仏様が鎮座している。
南北朝時代に足利尊氏の城塞となり、新田義貞が攻め込み寺の堂宇はことごとく焼失した。多くの兵士が没した寺である。それを加賀藩三代藩主前田利常が再興した。小松に隠居した利常は、寛永年間に岩窟内本殿、拝殿、唐門、三重塔、護摩堂、鐘楼、書院などを造った。
山門を入ってすぐ左手にある金堂華王殿は平成二年に再興された鎌倉時代建築様式の塔頭である。ここに祀られている十一面千手観音像が艶っぽい。
重要文化財がたち並ぶ境内にあっては新しい仏像だが、典雅なる品格、慈愛あふれるまなざし、白山の神秘、優美なる肩、光かがやく後背。
参道を進むと、左手に、白い岩肌があらわれる。これを奇岩游仙境という。
そそりたつ岩はヒマラヤの岩窟に似て、人間の顔にも見えるし、仙人が住む岩山にも見える。ここには生と死の宇宙がある。海底噴火した岩山が、水の浸食によって、このような奇岩となった。
岩壁沿いに細い石段がつながり、朱塗りの鳥居がある。岩の石段を登っていく参拝客が蟻に見えた。


奥の細道で芭蕉が訪れた元禄二年(1689)は、利常によって再興されてから五十年近くの年月がたっていた。芭蕉は那谷寺という名称に興味を持ち、「花山天皇が、西国三十三ヶ所の巡礼を終えたのち、那智山(第一番)の那と谷組(汲)山(第三十三番)の谷の二字を取って命名した」と「奥の細道」に書いている。「奇岩がさまざまの形となり、松を植え、茅ぶきの小堂が岩の上に造られている」と絶賛した。花山法皇(968―1008)は十七歳で即位したが、二年後に出家して「拾遺和歌集」を選した歌人である。
この地で、芭蕉は「石山の石より白し秋の風」と詠んだ。石山の石より白いのは白山で、白山から吹いてくる風が白い。秋の色は白(白秋)であり、白と死のイメージがある。
自然描写の句であるが、芭蕉は句の裏に死者への追悼を重ねる達人である。
立石寺で得た「静かさや岩にしみ入る蝉の声」は、亡き師「蝉吟」への追悼である。高館で得た「夏草や兵どもが夢の跡」は死んだ兵士への追悼、金沢で詠んだ「塚も動け我なく声は秋の風」は俳人一笑への追悼、小松で詠んだ「むざんやな甲の下のきりぎりす」は討ち死にした実盛への追悼である。
「石山の石より白し」を声を出して三回読んでみた。すると「し」(死)の音が四回も出てくる。「し・し・し・し」のリフレーン。芭蕉は死を意識している。「奥の細道」は死者を鎮魂する旅でもあった。


花山天皇は那谷寺を、死後の観音浄土、補陀落山の庭園に見立てていた。奇岩を登ると岩壁の中腹に大悲閣本殿が建っている。床を岩屋の高さまで持ち上げてあり、側面から縁に上がり、正面に廻る。大悲閣本殿は岩屋洞窟内にあって、母の胎内をあらわし、この窟に入ることによって一度死に、白山の命をいただいてよみがえる。岩屋洞窟は白山の命をいただいてよみがえる。岩屋洞窟は白山の方角に向かっている。山岳仏教は死と再生の信仰で、芭蕉は出羽三山でそれを体験してきた。
住職の木崎馨山氏は修験道を極め、那谷寺より八キロ離れた役行山の頂上へ上り、神道火祭りをして「符」のお焚き上げをする。
本殿を出て池沿いに進むと三重塔があり、一階に胎蔵界大日如来が安置されている。さらに先には村の鎮守であった若宮白山神社がある。那谷寺の本尊は奇岩游仙境と白山ヒメ神と十一面千手観音の三つであるから、ひと粒で三度おいしい浄土といっていい。
楓月橋から岩屋を見おろすと、境内の森が紅葉し始めていた。芭蕉が訪れたときは松が多く、楓の木はなかった。そのかわり芭蕉の句碑が楓の紅葉を見ている。
 

2012/09/13 (木) 本日は厚生経済常任委員会


どんなふうにして、この宇宙はできたのだろう?
ぼくたち人類はなぜここにいるのだろう?
神様は存在するのだろうか?
ぼくたちはこの宇宙でひとりぼっちなのだろうか?
これらは大きな疑問だ。あまりに大きすぎて、われわれの心を占めるのはごくごくときたまのことであり、よほどの暇がなければ考えない。あるいは、何杯か飲んだあとに持ち出されるような話だ。一番最後の疑問だけはおそらく、遅かれ早かれ、答えがわかるだろうが。



これは、マイケル・ホワイト著「宇宙に生命は存在するのか」の書き出し部分だ。私が夜空を見上げながら宇宙のことを考えるようになったのは、よほどの暇人であるからだろう。昨晩も頂きものの美味しいバナナを食べながら宇宙の彼方をみつめていた。


「まずもろともに輝く宇宙に塵となりて無方の空にちりばろう(宮沢賢治)」という昔から気になっていた言葉が、最近は珠玉のものに思える。


2012/09/12 (水) きょうは委員会傍聴


今朝の三時に見る夜空は、降り続いていた雨があがったせいもあって、星がすごく綺麗だった。私は「花鳥風月」のみを愛でる男となってしまっている。


マイケル・ホワイト著「宇宙に生命は存在するのか」に
 「アインシュタインまで、物理学者は宇宙を三次元で捉え、時間を別種の量と考えていた。一般相対性理論では、高さや幅や奥行のように、時間もひとつの次元である。そして現代の見方では、宇宙は実は「時空間」とよばれる四次元の中に存在している」とある。


私は、宇宙物理のイロハをお経のように(つまり何を言っているのか皆目わからないのだ)受け取っていた。しかしこの種の入門書を読み進めると、わからないなりに面白いということがわかってきた。


将来人類が亜光速の宇宙船で旅をするならば、乗組客は地球上にいる人間と比べて約1/3しか年を取らないとのこと。つまり浦島太郎の話は荒唐無稽ではないことになってくる。宇宙最先端の学問の成果がお伽話にリンクするというのは、すごいロマンであります。


2012/09/11 (火) 禁煙開始


禁煙を決意した。
かかりつけの医院へ行って、「禁煙を決意したので、薬治療をしたい」と言ったら、「そういうものに頼るのは君の意志の弱さの現われであって、決意が本物であるのならば、薬などに頼らず禁煙できるはずだ」と言われおおいに納得した。
すぐに煙草(ラーク9mg)を一本だけ残してゴミ箱に捨て、部屋にあった三つのライターのうちの二つのガスを抜いて、ゴミ箱に捨てた。残したタバコとライターを机の引出し奥深くしまった。
誘惑に負けない自分であるかどうかが、きょうからためされる。


何故一本のタバコとひとつのガスライターを残したかというと、死の間際に一本だけ肺の奥までじっくりと吸って、「はい、さよなら」と逝きたいからである。

でも、禁煙状態に入ってから、煙草にまつわる思い出のいろいろが頭をめぐる。
ハイテーンの頃、初めて吸った煙草はハイライトで、当時は確か70円(はい、らいとを消してねなどとダジャレを口にしながら吸っていた)。その後、ピース・セブンスター・マイルドセブンと渡り歩いたが、一時期、紙巻煙草をやめてパイプに凝っていたこともある。
手入れの面倒くささと周囲に与える匂いの強さゆえ、再び紙巻煙草に戻った。銘柄はランバージャックに変わりここ二年程はラークを吸い続けていた。


煙草のけむりは素敵な唄で、今でも口ずさむことがある。


いずれにしろ、君との恋はきょうで終わった。
さようなら、たば子。いつもでもお幸せに、たば子