2013年03月

2013/03/31 (日) 自堕落な日曜日

津島裕子が震災について語る(新聞記事)


セシウム137といった放射性物質の名前や単位、半減期なんてものを知っている国民は、世界中で日本人だけでしょう。それ自体が悲しいことです。原子炉の仕組みや電力会社の傲慢さも、悲しいことに知ってしまった。今までいかに無知だったか、じくじたる思いを抱えています。
東京電力福島第1原発が事故を起こしてから、私なりに勉強して、政府などの対応を見れば見るほど、これは世界史に刻まれる大事件だと感じています。広島と長崎に原爆が落とされ、「第五福竜丸」が被ばくし、茨城県東海村では臨界事故が起きた。米国との関係は、戦争責任が未処理なまま、核の「平和利用」へと姿を変えて続いた。私自身が、敗戦後の時間の流れをきちんとたどり直さなくてはいけないと思った。
それで戦後、米兵と日本の女性の間に生まれた混血孤児たちの物語を「ヤマネコ・ドーム」(「群像」1月号)という小説で書きました。
物語では、外国にいたかっての孤児が原発事故の後、成田に到着して「放射能の煮こごりの世界」を恐れます。けれど入国するとおびえが薄れ、人間の五感では何も感じられない放射能汚染のグロテクスさに思い至ります。
私たちは今、こういう状況となったからには、原子力産業をやめようと言う資格がある。去年の夏、首相官邸前のデモが盛り上がって、日本の社会が変わるかなという楽観的な思いを持った。でも参院選がああいう結果になって・・・。安部普三首相が「長州の出身の政治家として」と発言して、長州藩の亡霊がよみがえるように感じた。マスコミはなぜ平然としているのか。
作家も気取っている場合ではなく、もっと反社会的でいい。一方で文化の価値は人間にとって、とても大きなものです。日本が、原発を持ちたがる国を相手にもうけるような倫理を欠いた国ではなく、外国から見ればすばらしい美術や音楽があって、文学もなかなか良いというふうになったらどんなにいいか。
戦後からさかのぼって、近代以降の日本がどういう国だったのかを検証することも大事です。産業革命が起きた欧州ではD・H・ロレンスが近代文明を批判したり、ローカルな文化を大事にしたりといった、抵抗する精神があった。けれど日本ではそうした面が見えない不幸もあって、蒸気機関などに圧倒され、追いつけ追い越せで来た。日本の権力は、アイヌや沖縄、在日韓国・朝鮮人の人たちを排除してきた。
人間の心理というものも、掘り下げていきたい。実に醜い部分を抱えているし権力欲もあるのに、人には良く思われたい心理が強く働くのが不思議なんです。人が社会ででっちあげる‘物語’に乗せられないためにも、フィクションで少しでも真実に近づくことが、文学の役割ではないでしょうか。

もう20年以上前になるけれども、その時の私のガールフレンド=Mさんが子を失くした。そのMさんの心を癒す力となったのが、津島裕子との文通だった。
太宰治の娘であった津島も又、子を失くしている。


2013/03/30 (土) 土曜日の朝に


昨日は、待ちに待った日本プロ野球が開幕。
私が愛する阪神タイガースはヤクルトに9対3で快勝。今年のタイガースは生まれ変わりました。しかしながら巨人が広島に4対3で勝ったのが気に食わない。要するに今朝の気分は快感5割不快感5割です。


私は心に決めました。(よっぽどの事情が無い限り)阪神が勝って巨人が負けた翌日は、事務所をささやかな宴席の場とし、誰であれ来訪者を無料接待します。ただし、アルコールを持ってきてください。



それにしても、昨晩はよく飲んだ。



日頃、皆さんから「牧田さんは脳内出血で倒れ、一度は死にかかった身です。お酒は控えめに。煙草はひかえめに。〇〇は控えめに」と言われるし、必ず「そうします」と答えるのだが、実生活はまるで逆。


しかしながら、私のような言行不一致型の人間にも存在意義はある。「反面教師」としての存在意義だ。


2013/03/29 (金) もう週末か


あわら市議選は6月9日告示で16日投開票の予定となっている。ということは、私の任期もあと3ケ月ということなのだが、友人・知人から「後継者は誰や?」と今でもよく聞かれる。


勿論、何人かの人に「出ないか?」と囁いてきたのだが、誰も出ようとしない。識見・人格のあるそういう人たちに出てほしいと思うのだが、誰も出ようとしない。


自分が初めて出た時のことを考えると、選挙に出るということは、配偶者を初めとした家族に対して大きな迷惑をかけることになるになるので、出たくないという気持ちが渦巻くことはよくわかる。


先日、ある人と話をしていた時、相手からこう言われた。
「立候補制をとるのではなくて、有権者が市議になってほしい人の名前を勝手に書く。そして選管が上から順番に、なって構わないかどうかを確認して順々に当選者を決めていく。そうすれば戸別訪問もマイク騒がせもなくなり選挙費用もなくなりちょうどいいのではないか」と言われた。


・・これも卓見のひとつだ。
ということはともかく
本日は事務所模様替えに奔走しています。事務所にある不要物を笹岡焼却場に持って行き、ハンガーを買ってきて身だしなみを整え、読んだ本は全て焼却処分し、つまり6月からの新生活に対応できるようにしているのです。
清潔・・・これが生活の基本です。


どうでもいいことかもしれないが、高校野球甲子園大会を見ていると、攻撃でチャンスになると「ピンチヒッタ〇〇くーん」というアナウンスで、代打が告げられる。チャンスやのにピンチとはどういうことなのか?
私には、昔からこれがわからなかった。ベースボール用語を翻訳したのが正岡子規であることは余りにも有名だが、彼は既に死んでいる。


もうひとつわからないのが、
お座敷小唄の一番だ。


1富士の高嶺に 降る雪も
京都先斗町に 降る雪も
雪に変わりは ないじゃなし
とけて流れりゃ 皆同じ


これはどう考えても
1富士の高嶺に 降る雪も
京都先斗町に 降る雪も
雪に変わりは あるじゃなし
とけて流れりゃ 皆同じ     ではなかろうか。


2013/03/28 (木) ちょっと思ったこと


昨晩の来訪者を含めた5人で「原発を考えるあわら市民の会世話役会」が開かれた。「原発再稼動をめぐっての最近の情勢についての情報交換と日本国内でのエネルギー産出の可能性」という、今、日本で一番ホットな話題についての論議に終始したが、皆さんがお帰りになったあとは、DVDで島崎藤村原作・市川雷蔵主演「破戒」を見る。


視力の退化しつつある私には、文字を追うよりも映像を追うほうがらくになってきた。・・ということはともかくとして、小学校教師の瀬川丑松(雷蔵)は、自分の出自を隠し続けてきたのだが、とうとう噂になってしまい、子ども達の前で自分が部落民であることを告白し、床にひざまづき土下座して謝る。そして学校を去っていく。
この小説に対する批判が多いことは以前から耳にしていたが、その矛先はこのラストシーンにあるのだろう。


ただ、「さりゆく姿」が物語のラストシーンにあるものには、印象深いものが多い。「昼下がりの決闘」「卒業」「赤と黒」エトセトラである。


私事で恐縮だが、昨日もすれ違った知人の何人かに対して、「今まで支援してくださってありがとう。今年の6月があなたとのお別れとなります」と申し上げた。皆さんは「何故?何故なの?」と必ず言う。しかし私は多弁を労せず、「そう言ってくださってありがとう」と答えるのみだ。そして私は不確かな足取りで相手(私の場合は殆ど女性)から去っていく。
その後姿が絵になっていることは疑いないし、「惜しまれるうちに消えるのが花」なのである。

2013/03/27 (水) 敦賀気比高校おめでとう


確定しだい現職失格という、これまでの経過を振り返ってみると当然ともいえる広島高裁岡山支部の衆院選憲法違反判決が出て大きい騒ぎとなっているが、私にとっての昨日の大騒ぎはやはり選抜高校野球甲子園大会・敦賀気比vs京都翔英の逆転また逆転による敦賀気比の勝利だろうと、高校野球ミーハーファンとして思うのであるが、スポーツ観戦の醍醐味はなんにも考えなくてよいところにある。


ということはともかく
昨日、福井市へ所用で行った折、私は春の陽射しを浴びながら県庁のお堀を眺めていた。


このお堀から友人の死体が浮かんだのはかれこれ20年以上前のこと。その2週間前の昼下がりにこの近くの店で鰻の蒲焼を食べながら、当時設計に携わっていた建物に関する話題を二人で交わしていた。
その時の彼の表情が、お堀の水面に瞬間浮かんだような気がする


2013/03/26 (火) 昨晩の月

月みれば 千々に物こそ悲しけれ 
        我が身ひとつの 秋にはあらねど   大江千里

これは秋の歌なのだけれども、そんなことはどうでもよくって、昨晩の春月は見事だった。


知人から「夜、行く」という電話が入ったので、知人を迎えるために私はオープンカフェに出て白ワインを飲んでいた(つまみなし)。見上げると満月だ。ちょっとゆがんでいるような気もしたが少なくともほぼ満月だ。


月は雲の流れのなかで顔を出したり隠したりしている。そのつど空の明るさが変化する。「ああー、自然は変化する。だからこそ自然は生きているのだ。生きて大宇宙を支えているのだ」と妙に感動した私は、思わずある人に携帯電話して、「今この瞬間家の外に出て夜空を見上げてごらん」と囁いた。


電話を切った私は、再び白ワインを飲みながら、「月がとっても青いから」を、小さい声でひとり歌っていた。



2013/03/25 (月) あわら市の魅力発掘


昨日の午後は、中央公民館において「北陸新幹線フォーラム」が開かれた。
基調講演を、清水慎一氏がやって、そのあとはパネルデイスカッション。
コーデイネーターは江川誠一氏でパネラーは、清水慎一氏、奥村隆司氏、湊谷源邦及び橋本市長。
私は湊谷氏の報告を聞きながら、彼のお父さんのことをずーっと思っていた。


最後に、コーデイネーターが会場(200人程いたらしい)に向かって、質問を求めた。
会場の最後列に座っていた私が参加者の背中をみつめながら、「このひととこのひとが質問するのではないか」と瞬間的に思った時、実際にそのふたりが手を挙げてしゃべった。私は自らの直観力の正確さに驚いたのだが、いずれにしても、「ふるさと語ろう会」の会員が意見を発信してくれるのは嬉しい。


フォーラム終了後はそのうちのひとりと、私の車のなかで雑談(テーマは、太平洋戦争におけるミャンマー戦線とフィリピンでの死闘)となった。




ところで、あわら市の隠れた観光魅力のひとつに宮谷石切り場跡があると、私は思う。去年、私は小林記者をここへ案内した。私にとって5回目くらいだったが、何度来ても神秘を感じる。

以下、新聞記事を紹介(福井新聞・・ どうでもいいことだが、巨大洞窟にひとり寂しげにたたずむ男性が私です)。

宮谷石切り場跡
山道を登っていくと、開けた場所に出た。その先の山肌に小さく暗いトンネルを見つけ、体をかがめて中に入る。懐中時計で照らしてそろりと進んでいくと、光が見えてきた。目当ての石切り場跡にたどり着いたのだ。
石造りの神殿を思わせる神秘的な空間が眼前に広がる。聞こえるのは石から染み出て滴り落ちる水の音と、遠くを走る列車の音のみ。地面にたまった水は、どこまでも青い。
足を踏み入れるのは2度目なのに、わくわくして興奮が収まらない。遺跡を見つけた冒険家のような気分。夢中で歩き回り、カメラのシャッターを切った。

細呂木村誌などによると、この地の石は火山灰か固まった凝灰岩で加工しやすく火に強い。石の切り出しはは1887(明治20)ごろ始まり、建築資材や火鉢などに用いられた。セメントが普及するまで、金津から竹田川の水運を利用し、県内一円に出荷されたという。

石切り場がある山の一帯は、JR細呂木駅前の近藤建設(あわら市青ノ木)の私有地。社長の近藤義満さん(46)は「いつかは公開し、パワースポットとして町おこしの起爆剤になれば」と思っている。ただ、山道の整備や周辺の草刈りが必要で、今は余力がないという。

近藤さんは「連絡をしてくれた上で見学してもらうのは構わないが、危ないので気を付けてほしい」と話している。

問い合わせは同社=0776(73)1501 (文・小林真也)



2013/03/24 (日) 昨晩のこと


現在、早朝の5時。新聞を読み終え、パソコンに向かう私の傍らで某市議がすやすやと眠っている。寝顔を見ていると、昨晩の酩酊雑談のおかしさが思い出され、ついつい笑ってしまうのである。


某市議は昨晩、缶ビール12本と赤ワイン1本を携えてやってきた。飲むほどに(議会でも一番饒舌だが・・)饒舌となり、やがて矛先は私にむかってきた。
「毎日まきちゃんのブログを読んでいて言質に深さを感じる。それは尊敬に値するが、しかしタイトルが議員日記となっているのだから、議会で焦点となっていることをもっともっと書くべきではないか。加えて言うなら、ヘンな写真が時々載っている。議員にあるまじき態度だ・・エトセトラ」


ここで私はこのブログを書き始めた初期の頃を思い出した。生真面目な私は、毎日毎日議会のことだけを書いていた。そのうち「面白くない」という電話がかかるようになってきた。「議会の中身の報告は他の議員がやっている。どうでもいいことを書くのがブログの要諦だぞ」と言われた。ここで私は「半径20km以内で目にしたこと耳にしたことだけを予断と偏見をもって書こう」と決意したのです。


ということはともかく
酔っ払った彼の言辞は、彼自身のプライバシーに移ってきた。彼は別れた妻(別れていないのかな?)に対する思いを語り、現在惹かれている女性のことを身振り手振りで語った。その語り口が最高に面白かったのけれども、それを再現するだけの筆力が私にないのが残念だ。


2013/03/23 (土) 哥川


とんぼさんが調べた哥川年表のペーパーを頂いたので、きょうの昼はパソコンのキーボードを叩き続けていた。以下、紹介。

哥川年表
貞享2年(1685) 金津坂ノ下願泉寺・15世有馬東也(声々庵東也)
           江戸遊学のおり、芭蕉に奇遇し師弟関係を結ぶ。


元禄2年(1689) 8月、芭蕉、北金津総持寺に立ち寄る(雨夜塚)、東也ら俳人仲間が集
          まり、旅情を慰める。のちに東也は姫川吟社をたちあげる。


元禄7年(1693) 芭蕉没す。享年51歳。


元禄11年(1697)  東也、江戸で芭蕉十哲のひとり、各務支考と師弟関係を結ぶ。

そのころ、俳壇は松永貞徳が興した貞門派、西山宗因の談林派、磐田涼菟と中川
乙由の伊勢派、各務支考の美濃派が隆盛であった。貞門派、談林派は江戸・大阪・
京都を地盤とし、都市系俳壇と呼ばれ、伊勢派・美濃派は地方に進出していき地方系
俳壇と呼ばれた。北陸は美濃派が盛んになり、千代も支考が松任の旅籠に逗留した
さい、訪ね弟子入りをしている。(千代、17歳)


元禄14年(1700)  各務支考、三国に初来訪。三国俳壇に影響を与える。三国俳壇の
             歴史は古く寛文7年(1667)の「続山井」に
       みどり子の たったる舞や松林  久可
       風をはらふ 木薬も哉春の花  幸雄
       が上梓されている。


元禄16年(1702-1703) 千代、松任に生まれる。


宝永4年(1707)  各務支考、二度目の三国来訪。岸名索嚢、赤垣播東らが支考に
           師事し、日和山連を興す。


宝永7年(1710)  支考、三度目の三国来訪。

享保元年(1716) ぎん(哥川)私生児として生まれる。生地は吉野とも大和初瀬川とも
           言われているが、定説にはいたらず。生年も確認されておらず。
           (千代との差13歳)
           同年、与謝蕪村生まれる。


享保6年(1721) ぎん7歳。三国荒町屋七郎佐衛門の養女となる。
        支考の高弟、仙石慮元坊が三国初来訪。


享保7年(1722)  支考、4度目の三国来訪。
(享保10年の記録) 三国港 家数1800余 人口5300余 豆腐屋6 酒屋17 
両替屋2 質屋8  鍛冶屋30 桶屋150 遊女62
滝谷・出村 町数12 家数370 遊女85 遊女は小女郎とよばれた。


享保12年(1722) ぎん12歳。禿(遊女見習い)となる。
(享保14年・・1729年ぎん14歳との記述あり)


享保16年(1731) ぎん16歳。遊女となる。
各務支考没す。享年67歳。美濃派3世に仙石虜元坊が継ぐ。
(芭蕉を始祖とし、支考は2世)


享保18年(1733) ぎん18歳。伯瀬川を名乗る。翌年に虜元坊、再来訪。


元文2年(1737) ぎん22歳。永正寺17世杉原永言と出会い、師事する。
          巴浪は金津願泉寺・東也の息(弟との説あり)この頃からぎんは
          俳人として哥川を名乗る。三国俳壇・日和山連の創始者・
          岸名索嚢死去。


寛保元年(1741)  哥川26歳。江戸に旅行して文人・俳人・絵師と交流。
          (絵師 菱川師芳・・もろよし。哥川を描く)
江戸座(江戸派)の俳人田女(でんじょ)は「俳諧海山」 (寛文元年1789)で
千代女に記したのち
また三国の哥川は、かわたけの身にあれば、うき世の人の煩悩をやすめながら、白象
となる船待顔に、その風流にあそぶとかや。と記し、
「照れ光れ加賀越前の月ふた夜」と二人を並び称している。


寛保3年(1743)  哥川28歳。金沢にて千代らと句会を開く。千代42歳か。


延享2年(1745) 美濃派3世・慮元坊没す。享年60歳。
        第4世に田中五竹坊が就く。


延享4年(1746)  哥川31歳。遊女を退いて豊田屋初代楼主となる。
        (豊田屋ぎん)各地の俳人との交流が深まる。
        大和の国から母を引き取り、ともに暮らす。

        美濃派では五竹坊が安田以哉坊に座を譲るが、その後、五竹坊と
        以哉坊に論争がおこり、美濃派は以哉坊と五竹坊の門弟・河村再和坊
        が率いる再和派に分裂する。その余波が三国俳壇に及んだ。
        (寛延元年・・1748 以哉坊、三国来訪)
        三国日和山連は始祖・岸名索嚢、2世・赤垣播東、3世・五十嵐佐北に
        継がれていた。4世をめぐり日和山連の内部で以哉派と再和派が
        争った。
        その結果、日和山連宗主には再和派の山崎陸芝が就き、以哉派の
        巴浪は日和山連を離れ滝谷連に参加する。

        その後、日和山連は興ケ丘連、水音文社、三興吟社に名称を変えて
        いる。
        滝谷連は三国川社となる。昭和16年、三興吟社と三国川社が合流して
        三国日和山吟社となり現在に至っている。


宝暦3年(1753)  哥川38歳。豊田屋を2代目伯瀬川(詩川)に譲り、仏門に入る。
        滝谷庵を結び、滝谷尼と称す。哥川の代表作である、尚、豊田屋3代目
        は里川で詩川、里川ともに俳句をたしなみ哥川とともに滝谷三山と
        称された。
        (奥そこのしれぬさむさや海の音)
        は、この頃の句とされている。
        同じころ、千代も松任に草風庵を結び素園と称す。


宝暦4年(1754)  哥川39歳。千代と吉崎で再会。


宝暦6年(1756)  哥川41歳。師・杉原巴浪没す。享年46歳。
        哥川、滝谷連3世の文台を継ぐ。初代は佐北、2世・巴浪(創始者)、
        4世は巴浪の息である永正寺・杉原左潮。


宝暦11年(1761)  哥川46歳。千代、三国に哥川を訪ねる。哥川、俳友を訪ねて
         名古屋に赴く。


宝暦13年(1763)  哥川48歳。松任に千代を訪ねる。


明和4年(1767)  哥川52歳。母(法名釈妙秀)の納骨と俳友の再会のため京都に
           上る。


安永3年(1774)  哥川59歳。千代、蕪村から「玉藻集」の序文を依頼される。
         哥川、病床にある千代の執筆に協力する。
         千代、「玉藻集」の序文を完成する。


安永4年(1775)  哥川60歳。千代、没す、享年73歳。


安永5年(1776)  哥川没す、享年61歳。法名釈妙春。


昭和29年(1954) 滝谷地籍(滝谷庵あたり)で哥川の墓碑が発見される。
        (釈妙春・・母)


資料 「哥川の生涯」本多柳芳氏著 「遊女哥川」中島道子氏著
   「江戸遊里盛衰記」渡辺憲司氏著



2013/03/22 (金) 本日は議会最終日


本日は議会最終日です。
本日は敦賀気比と春工が甲子園大会に出場する日でもあります。


2013/03/21 (木) 一昨日と昨日


一昨日の晩は、芦原温泉某旅館において「旧金津町まちうち議員と区長会OB会の語る会」が開かれた。「議会報告会」ほどにかたぐるしいものではなくざっくばらんな雰囲気だったので、くったくのない意見が交わされたと思う。司会を仰せつかった私としてはほっとしたし、親睦会に入ってからは酒が進み焼酎が進み十分に酩酊したので、コンパニオンも美しく見えた。


最後の挨拶で、「私は6月に議会を去りますが、他の四氏(杉田・北島・森・吉田)は市議選に挑みます。是非とも全員当選をお祈り致します」とくくったが、勿論これは本音です。

明けて今朝は「あわら湯めぐりハント」。先日の広報編集特別委員会でこれの風景記録を仰せつかった私はデジカメを携えて現場に向かった。





杉田鶉山旧別荘では、参加市民に担当者が説明する構図に私もまぎれこんだ。





中に入るとグランドホテルの女将と鉢合わせ。久しく会っていなかったので長話となったが、充実感のある一日だったような気がする。
 
2013/03/19 (火) 無題


昨日の午後は、議会活性化特別委員会が開かれた。3月議会終了を受けて4月に開催する予定の「議会報告会」(この報告会は今回が3回目)の開催日や開催場所についての打合せである。詳細は4月に市内全世帯に配布される「議会だより」に載ったり、各地区の回覧板に貼り付けたりする予定なので是非御覧ください。


2013/03/18 (月) 本日は議会活性化特別委員会


昨日の昼に、元町議のA氏が来訪。近日中に開かれる「旧金津町まちうち市議5人と区長OB連の語る会」の進め方についての打合せとなった。打合せ終了後は回顧談。


「金津町が金津町であった頃は、尊敬に値する郷土史家の何人かが存命だった。しかしいまや彼らの殆どは草葉の陰だ。我々は先輩たちに続く語り部を発掘しなくてはならない。女にうつつをぬかすことのない清廉潔白な人材を発掘しなくてはならない」ということで話がまとまった。


2013/03/17 (日) フライドポテトを食べながら


市議選が近づいてきたためか最近の事務所来訪者たちからは、今回の選挙の動向についてよく聞かれます。「あわら市にとって誰に入れるのが一番いいのだろうか」という種類の質問ですが、去り行く私としては固有名詞についてはさらさら興味がなくつまり誰でもいいのですが、ただ、ふるさとの歴史についての知見を持っているひとがひとりぐらいは当選してほしいというのが、敢えて言えば私の願いです。


ということで昨日は三国龍翔館へ「三国の遊女俳人・歌川」の話を聴きに行きました。歌川の代表作「おく底の しれぬ寒さや 海の音」からは、鉛色の空を持つ冬の日本海の海鳴りが聴こえてきますが、夜の宿で按摩されている時の歌川が海の音にいいしれぬ寂寥感を感じたのがこの句につながりました。


売春防止法の成立で遊女はいなくなってしまいますが、近世の遊女には「身をひさぐ性的存在」という蔑まされる側面と「神事につながる聖的存在」という崇められる側面という二面性つまり性聖一致があったようです。


ただし、私がこの句にうたれるのは、文芸的に抽象化されたレベルのものではなく、個人的な体験を通して、愛する人との永遠の別れからくる胸の引き裂かれを沈静化させる力となっているからのように思えます。


参考:金津遊女の墓・青楼無縁塚


姫川の 俤ゆかし 枯柳 
 




宿場小女郎が旅人の袖をひいた遊里は、竹田川を挟んだ長さ1キロ余りの町の川北、北金津町といわれた宿場集落にあった。金津傾村鏡によると、安永2年当時、 北金津は、戸数411、人数1394、(男728・女666)。遊女が61名も居たのだから、女性の数が多いのかと思ったら逆に52名少ない・・・。
遊里はその北金津町の三丈山を取り巻いている旧八日町一帯にあった。金津町郷土資料は次のように記している。
「当時稲荷山の地には二十余軒の妓楼が軒を連ね、数十名の娼婦が居って我先にと客をよんだ。したがって階上階下の別なく、三弦の音、太鼓のひびきやかましく稲荷山にこだましていたという・・・ (津谷博子)
「宿場史跡 金津町坂ノ下」金津町教育委員会 より


2013/03/16 (土) もう週末か

昨日は金津幼稚園卒園式・金津小学校卒業式。





きょうの午後は、三国龍翔館に於いて、「三国港の女流俳人ーその時代と周辺」の講演を聴いた。



講師の久保氏が「金子兜太は、隣国・加賀の千代女よりも越前・歌川のほうが俳人としては数段上と評価している」と言ったのにはちょっと驚いた。


そこで、龍翔館からの帰りに歌川ゆかりの妙海寺へ行き、句碑の前でポーズをとった。





おく底の しれぬ寒さや 海の音  歌川


2013/03/15 (金) 本日は幼稚園卒園式・小学校卒業式


あと3週間もすりゃ、ここらあたりの桜も満開となる。


「桜の樹の下には屍体が埋まっている!これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。」と書いた小説家がいる。


ところで、僕にとって一番美しかった桜は、20年ほど前。
旧金津町の保育士さんたちを含めた男女8人でワンボックスカーに乗って奈良へ行ったのだが、ハンドルを握らなかった僕は、行きも帰りもボトルウイスキーを飲み続けしゃべり続けていた。


桜並木に囲まれた旅館に一泊した。夜が明けて朝陽が差し込んできた時、窓外から目に入った光景はまさに
敷島の 大和心を人問はば 
        朝日に匂ふ 山桜花 
本居宣長   だった。


2013/03/14 (木) 昨日の一日

昨日の朝は、「総務文教常任委員会」を傍聴。午後は事務所に戻って、「所得税確定申告書」作製に専念、夕刻にようやく書き上げた。


書き上げるのと同時に、来訪者あり。そのひととの話のテーマは「杉田鶉山」。そもそも僕は7年前まで杉田のことは全く知らなかった。


あわら市が「中学校2校維持or統合」問題で騒がしくなった頃、我々2校派議員が温泉街にある杉田の旧別荘を密談の場所として何度か使用したことから、初めてその名前を知った。


その後数年を経て、「ふるさと語ろう会」が鶉公民館館長に「鶉山伝」を講演してもらったり、波寄の生家跡を訪ねたり、県立図書館・文書館で学者の話を聞いたりしているうちに興味が拡がっていた。


来訪者から「偉人と呼ばれるひとでも内実は凡人以下の部分があるのね」と言われたが、僕はうなづきつつ「偉人と呼ばれる程度に見合うだけのバカな部分を併せ持つのが人間というものではないか。つまりすべての人間はプラスマイナスゼロなのだ」と、心で答えた。


夜になったが、鬱気分のせいかなかなか寝付かれない。そこで午前1時頃にDVD:「悪魔が来りて笛を吹く」を見始めた。全てそうだが、横溝正史原作のものはストーリーもBGMもおどろおどろしい。
鬱気分に加えて恐怖感まで出てきたのでスイッチをオフにして布団にもぐりこんだ。やっぱり寝付かれない。そして、寝付かれないうちに朝が来た。


2013/03/13 (水) もう中旬か


3.11東日本大震災で被災し家族を失った人たちの手記のなかに、「わたしは3月11日に死にました」というのがあった。これは肉体的には生きているけれども魂はぬけがらとなっていることの謂である。そしてその手記のスタンスは、「再興にむかってのサポートを!」といった日本国民全体の合言葉に背を向けているものだ。


大震災での被災ではないけれども、同種の経験をもってしまった何人ものひとから、ここ数年間話を聞いてきたが、表面的な立ち居振る舞いとは別に、心の底部に共通に巣食った思いであることを実感した。


2013/03/12 (火) 卒業式


世の中には親切な人がいるもんだ。きょうは気持ちのいい朝を迎えています。
きょうの午前中は金津中学校の卒業式。
僕が金津中学校PTA会長として挨拶した時から16年間が経過している。式は金津中学校校歌斉唱で終わったが、校歌の作詞者・山口喜三太氏は僕と妻との結婚式の仲人をしてくださった方だ。その山口氏も既にこの世にはいない。あの世へ行ったら会える人が沢山いるのだと、僕は思った。





市議として出席する最後の卒業式だと思うと、ちょっと感傷的。
夕刻、白ワインを買いにコンビニに寄った時、レジ係りの女性が、「今日の卒業式ご苦労様でした。保護者席から見つめていました」と唐突に言う。


僕は金津幼稚園、金津小学校、金津中学校のPTA会長を歴任したが、幼稚園時代のお母さん達がいかにも若妻といった感じで挨拶のマイクを持っていても一番楽しかった。


けれども、きょう話しかけてきた女(ひと)には、年相応の色気があった。


昔の話で、このブログを御覧の皆さんは信じないかもしれないが、議員来賓席に座っていると、幼稚園あるいは小学校の卒業式の時、「わたし、保護者席の前から〇番目に座っているわ、こっち見てね」という複数のメールが入ってきて困ったよ(笑)。


2013/03/11 (月) 講演「北陸線金津ルート決定と仲士組創立之碑建立への流れ


昨日の午後は、三国図書館・大会議室へ行った。
Hさんが講師となっての「北陸線金津ルート決定と仲士組創立之碑建立への流れ」の講演を聴くためである。「仲士組創立之碑」に関しては、昨年5月に福井新聞に載った「福井世間遺産」でちょっと関係しているので、僕も氏の講義が始まる前にマイクをもってしばらくの間挨拶。


そしてH氏の印象深い講演が始まった。氏が我々受講者に配布した資料は、明治期の「候文」である。


 資料 1  石碑写真   
  2   東北鉄道会社創立願  明治14年8月8日
  3   北陸鉄道会社創立願  明治21年6月30日
  4   北陸鉄道会社企業目論見書  同上
  5   北陸鉄道敷設追願書  明治22年12月2日
   北陸線敷設に関する鉄道会議議事録  
   北陸鉄道線維持同盟会書簡  明治27年3月20日
   北陸鉄道既定路線維持願  明治27年

H氏は、明治期の難解な「候文」を平易な現代文に翻訳しつつ、諄々と解説した。





①明治14年というと、西南戦争が終わってまだ4年。明治中央政府の多額の軍事出費による疲弊が「北陸線金津ルート決定」の大きな要因となっていたことがわかる。
願人のなかに、加賀前田家15代藩主・華族前田利嗣や越前松平家16代藩主・華族松平慶永(春嶽)らの名があるのには驚いた。だって春嶽は幕末四賢候の一人と謳われたのだから、この時期にはとっくに死んでいたと僕は思っていた。


⑥中央政府が既に金津ルートを決定していたのにも関らず、三国は北陸線を迂回させて三国港にひっぱってこようと画策。その思いを時の経済界の大立者・渋沢栄一に託す。しかし路線配置の立案者・松本荘一郎(米国に留学、土木工学を学ぶ。鉄道庁長官、逓信省鉄道局長鉄道局長官等を歴任。その間、各地の鉄道付設の調査にあたる)は技術者としての信念から反論。
また、陸海軍はせまりくる日清戦争を想定しての鉄道線路防衛の見地からも、金津ルートを主張。・・・エトセトラ。


講演が終わってから、三人で三国町内の焙煎珈琲・喫茶店へ。Hさんの話はそこでも延々と続くのだった。

2013/03/10 (日) 嶺北あわら消防署の落成


本日の午前9時から嶺北あわら消防署の落成式が行われた。





いただいたパンフには「本庁舎と主訓練塔は建物重要度係数1.5倍の耐震性能を確保」と書いてあった。これは恐らく標準せん断係数CO=0.2を0.3として構造計算書を作製したということだろう。
消防署は防災の拠点だし、2年前の東日本大震災を経験した我々がそのことに留意するのは当然だ。


2013/03/09 (土) 又週末が来た


昨晩のWBC野球・日本vs台湾の試合は実にエキサイテイングだった。試合後の記者会見で山本監督は「井端の一振りに尽きる」と言っていたが、私見は違う。


MVPは牧田だ。相手チームのバントフライに対して果敢な直接キャッチを成し遂げたあのプレイの印象が抜群だった。


「牧田」という姓を持つ人には印象派が多いのである。

きょうは福井県国際交流会館に於いて、「民主党福井県連総支部連合会第14回定期大会」が開かれた。ゲストは民主党代表・海江田万里氏。



テレビで見る顔とは違う一面を見たような気がする。


それは、質疑応答の時間に脳性小児マヒの人が民主党の現況に対して苦言を呈していた時。我々健常者にとってその人の言葉はとても聴き取りにくい。けれども氏は一生懸命メモをとって答弁していた。

2013/03/07 (木) 本日も厚生経済常任委員会


昨日は、午前9時半から厚生経済常任委員会。
所管は
☆市民生活課
☆福祉課
☆子育て支援課
☆健康長寿課
傍聴者は二名だったがいずれも所管外の議員だった。議会の活性化が叫ばれているのだから、一般市民の傍聴を期待します。


帰途、コンビニに寄って白ワイン(¥398エン)を購入。パジャマに着替えてから自宅裏の整備されたオープンカフェのデッキチェアーに座り

白ワインを飲みながら夜空を眺めるうち、いつの間にか南沙織の「色づく街」を口ずさんでいた。


この歌が流行ったのは40年ほど前だ。僕が乗り込んだ沖永良部島に向かう船が奄美大島・名瀬港に一時寄港した時、波止場に流れていたのがこの唄だった。


南沙織は永遠のアイドルで、白いヒラヒラのスカートで歌う彼女の姿が発散する健康的な若さは我々団塊の世代を魅了した。
騙されたかなにかで篠山某と結婚した彼女は後年教育ママゴンに変身したという噂を聞くが、アイドルはステージの上が全てで、私生活などどうでもいいのである。

2013/03/05 (火) 無題


昨日は一般質問。一般質問は午後3時に終わり、そのあと広報編集特別委員会が開かれた。広報編集特別委員会終了後に加賀の海岸へ。


日本海に夕陽が落ちていく。



前の日の晩に曽野綾子著:「観月観世」を読み終えていた私は、夕陽に映える西空に死を想わずにはいられなかった。

2013/03/05 (火) 観月観世

曽野綾子著「観月観世」を読み終えた。サブタイトルが「或る世紀末の物語」とあるが、まさにその通りで、深夜に薄暗がりの部屋で読むのに最適の本だった。


あとがきで、著者はこういうことを書いている。
「前略・・この五十年来の土地は、西に向かって眺めが開けていて、有名な相模湾の夕陽が見られる。私は昔から夕陽と月を観るのが好きだった。陽を見るのが好き、という嗜好を行動に移すのはきわめてむずかしいから、人は月を眺めるほかはないのだが、夕陽と月はいささかその人の心理に関係がある。
私は昔から、というより、子どもの時からずっと死を想う性格だった。毎日死を想わない日はない。「死を想え(メメント・モリ)」という言葉は普通のキリスト教徒の日常にも生きていて、信仰を深く生きている人なら、三度の食事後と、朝と就寝前、少なくとも五度は、死を想いつつ祈るはずだ。しかし私は始終祈りをさぼっているから、折り目正しく死を想っているのではない。
夕陽も月も一日として同じ姿を見せることはない。私は夕食にてんぷらを揚げかけているような時刻でも、ほんとうに陽が落ちるのが見える日には、てんぷらの揚がり具合を犠牲にしても落日を眺めに立つことがあった。この夕陽の輝き、この月の趣は二度と見られないのだから、食事の支度などどうでもいいと思うのである。
その時、私はいつも同時に自分の死を想っている。世の中の作家には、生に向かうタイプと死に向かうタイプとがある。というが、私は明らかに死を対象にものごとを見て来た作家だと想う。
死だの海だのを見ていると、次第次第に現世の評価と大きな誤差を生じる。いわゆる型通りの人間の執念の対象になるような世の中の姿勢から、大きく離れてくる。その代わり・・何か秘密の世界が生じる。大したものではないが、世間では通じにくい。・・・後略」

2013/03/04 (月) 昨晩のこと


昨晩は、芦原温泉某旅館に沢山の人が集まった。昨年12月の衆院選で福井二区から出馬し惜しくも敗れた糸川氏を囲んでの懇親会だ。


久しぶりに氏と話して僕は気分が和らいだ。更に隣席の若い人と話しているうち、「ここに集まった人たちとは今年6月でお別れとなるんだなあ・・」との思いで妙に感傷的になって酒が進み焼酎が進み諸々が進み、カラオケの時間が来た時、いの一番にマイクを持った。


持ち歌のひとつ「港町ブルース」を僕は歌った。一番で畳をたたき二番で丹前を脱ぎ三番で浴衣を脱ぎ四番で下着を脱いで上半身あらわとなり五番で畳をたたきようやく歌い終えた時、万雷の拍手となった。正気とは思えない歌い方だったが、これが「人生で最後」だと思うと、別に恥ずかしくはなかった。


歌い終えた僕は会場をあとにして控え部屋に戻りズボンを履き靴を履いてから、妻に携帯電話で「迎えたのむ」と言って、旅館の外へ出た。


出た時、目に入ったのは交通事故だった。救急隊員が破損した車から人を救出し担架で救急車に運んでいる。ああいう光景を見ると、背筋が寒くなる。

2013/03/03 (日) 文書館


大田裕美「木綿のハンカチーフ」を聴きながらこのブログを書いている。


昨日の午後は福井県立図書館「文書館」へ、4人で行った。


文書館開館十周年記念講演会。演題は「杉田仙十郎と定一夫妻」で、講演者は「大阪経済大学教授・家近良樹氏」。話が脱線の連続で焦点がしっかりせず総じてわかりにくかったが、氏の言いたかったことはひとつに尽きると思う。




定一は明治期の帝国議会で議長の要職にまで上りつめ、九頭竜川改修や国鉄金津駅開駅の実現あるいは三国支線の実現で芦原温泉に福をもたらしたということに一応はなっている。けれどもそれらは明治中央政府の施策の結果であり、定一は時の流れに身をおいたにすぎない、と氏は語っていた。彼は弁舌が爽やかでも機知に富んでいたわけでも、情が深くて親しみをもたれる人物でもなかった、偉かったのは、スポットを浴びていない父・仙十郎と妻・鈴である、と語っていた。


杉田定一自筆の手紙




なかんずく鈴は偉かったそうで、京都で交流のあった新島襄の嫁さん(今、NHKTVで放映中)よりも傑物だったとのこと。歴史は女がつくっていくのだろう。


2013/03/02 (土) 本日は県立図書館文書館


皇位継承略系図である。
昨日午前中の集まりで焦点になったことの一つが「日本の天皇制」だった。Uさんは「初代・神武から9代・開化までは実在が怪しまれるが、10代崇神からは木簡が出ていることもあって実在がはっきりしている」と言う。
いずれにしろ、越前に住まう我々にとっては第26代・継体天皇が馴染み深い。

昨晩、三国観光ホテルでF-TOP坂井地協支部幹事会が開かれた。
1報告事項
(1)活動経過
(2)労働問題研修会について
(3)2013春闘街頭行動について


2確認事項
(1)福井地協第4回ソフトバレーボール大会について
(2)福井地協2013春闘決起集会について


3協議事項
(1)第84回福井県中央メーデーについて
(2ボランテイア活動について


4当面の行事日程


5その他  という次第だった。


幹事会終了後は懇親会に移ったが、車で来た僕はビールを飲めないので隣席の人たちに対して専らビールを注ぐ側にまわり、数年前の臨死体験で得た「生と死のはざま」についての考察を語っていた。

22013/03/01 (金) 新聞を読んで


本日の朝日新聞15面に、「障害児教育 伸びる芽に投資する発想を」(松井彰彦氏)が載っていて、書き出しはこうです。


「二宮尊徳の言葉に「道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である」というものがある。経済活動に、人をだまさない、おとしめないといった道徳観念が不可欠であるのと同様に、福祉活動でも、どうすれば障害児の能力を伸ばして世の中で生かすことができるか、といった教育投資の発想は欠かせない。
福祉は弱者を救うためにだけ存在するのではなく、伸びようとする芽がぶつかる障害を取り除くためにも活用されるべきである。そうした理念で運営している福祉施設はあるだろうか。そうぼんやりと考えていた2月のとある日曜日、東京都葛飾区にある聴覚障害児支援施設、金町学園を訪ねた。
金町学園は10年前、職員による不祥事で世間を騒がせた。それを機に体制を刷新。元ろう学校校長を迎えた新体制では、障害者自立支援法を活用して、新たな取り組みを始めたという。養育が困難なろう児を受け入れてきた施設からどう変容したのだろうか。


20人ほどの聴覚障害児が暮らす金町学園には「NPO大塚クラブ金町学習塾」がある。毎週日曜日に学習支援のボランテイアが入る。塾長で手話通訳士の森本行雄のほか、大学教師や大学生が小学生から高校生までの勉強を見る。大学受験を目指す生徒もいる。教師役の大学生の中には聴覚障害がある人もいる。」


それはともかくとして
きょうの12時、やっと3時間(暫時休憩なし)の会議が終わった。来訪客5人、会議のテーマは「天皇制と武家政権」で、久しぶりに大変面白かった。あわら市内にも潜在的語り部は沢山いる。