2013年09月

2013/09/30 (月) 新しい週の始まり

和風事務所にブラインドは似合わない。さりとてロールスクリーンは値段が高い。思案しつつ近くのDIY店に行ったら、幅176cm高さ112cmの屋外陽射し除け用スダレが眼についた。これを室内側にすえつけたらどうだろうかどのみち¥468エンなので似合わなかったら廃棄するだけだと思い購入。手前味噌かもしれないが、なかなかよく似合う。






それはともかく
昨日の午後は、新しくオープンした生涯学習館の三階に居た。「原発を考えるあわら市民の会」主催の講演会があったためで、講師は福井大学名誉教授の山本富士夫氏。


講演自体は、どこかで聞いたような内容が多くつまり目新しいものではなかったが、質疑応答のなかでの、原発建屋内配管施工詳細が図面として残っていない、という説明にはびっくりした。
「普通の建物でも設計図と施工図は双方保存しておくのが当然なのに、何故ですか?」と僕が聞いたら、「原発は巨大過ぎるからです」という答えが返ってきたので、「巨大であろうがなかろうが、普通の建物と比べて施工詳細図の必要性は格段に大きいはず」と僕は思った。

それはともかく
僕はこの講演会で受付つまり切符のもぎりを仰せつかっていたのだが、某氏が入ってきた時に僕の顔を見て、「あれ?なんでこんなところにいるんや・・ブログでは旅に出ているはずやが」と言われた。


確かに何人もの人から同じようなことを言われる。その都度、「人間の気持ちは変わる。変節するのが人生なのです」と答えている。


2013/09/29 (日) きょうはいい天気だ





昨晩は四人が集まり、Uさんが講師となっての勉強会。テーマは「日向三代のラブロマンス」だった。

Uさんが配布されたレジュメによれば


・天孫降臨の主役ニニギの命と大山津見神の娘コノハナサクヤ姫との恋
大山津見神は結婚を認めるが、姉娘のイワナガ姫も対で婚礼。姉娘は岩のように醜い為、親元へ返す。妹娘は非常に美しく、結婚する・・コノハナサクヤ姫である。父親は怒り以後ニニギの子孫の命は、はかないものになろうと。その後姫は懐妊するが、一度の契りで懐妊するのに疑いをと。姫は疑いを晴らす為、産屋に火を放ち、三人の子を出産。


・ニニギの息子山幸彦の恋
長男の海幸彦と三男の山幸彦はある日、お互いの道具を交換して狩の競争をすることになる。ところが弟は兄の道具を紛失する。弟は泣いて詫びるが兄は許さない。そこへ塩権神が現われて、ワタツミの国で三年過ごし、大綿津見神の娘トヨタマ姫と恋。結婚することになる。やがて姫は妊娠。出産の様子は絶対に見るなと告げるが山幸彦は見てしまう。そこには鮫が出産している姿が。姫は恥ずかしい姿を見られたと海へ帰る。


・神武の父ウガヤフキアエズの許されない恋
母のトヨタマ姫は海へ帰るが、残してきた息子が心配で、妹のタマヨリ姫を養育係りとして息子の元へ送り出す。息子は無事成人してウガヤワレビコとして叔母であるタマヨリ姫と恋愛して結婚することになる。四人の男子が生まれ、末子のカムヤマトイワレビコが初代神武天皇になり、以後ヤマタ王朝となる。


・その後、古事記は神武東征、日本武尊(倭建命)による熊襲、東夷征服と続くことになる。



Uさんによれば、日本書紀に登場する神々は、総計三百柱を超え頭がごちゃごちゃになるのでまとめて八百万の神と称した。又、神々の多くが近親結婚をしているとのこと。神々でさえこうなのだから、人間を硬派とか軟派とかに分類することに意味はないと思う。


2013/09/28 (土) きょうはCAD三昧

「広島の前田智徳が引退」の記事はショック。
いつも苦虫をつぶしているような顔でプレーしていた。ホームランを打っても表情は変わらない。家庭でもあんなんだろうか、と心配になるほどだった。

笑わない男には独特の風格がある。


2013/09/27 (金) 雑感

硬派志向が深まるに連れ、チャラチャラと生きている自分が嫌になり、事務所から一歩も出たくなくなり、事実、必要最低限の用事以外では出ることをせず、事務所内でもっぱらCAD作業か読書かDVD鑑賞の日々となっている。但し電話だけは偶にする。


昨夕もあるひとに電話してこう言った。「硬派になって、女が全く嫌になったので、もう君と会うことも無いだろう。幸せに暮らしていけよ」と非情に言って受話器を置いた。受話器を置く時に「なぜ・・なぜなの・・なぜ会ってはいけないの?」という声が聞こえた(ような気がする)。


楽天優勝の瞬間を見届けてから熟睡し、午前2時に起床。歯を磨き熱々珈琲を飲んだ。


そのあと、DVDで実写フィルム「大東亜戦争史・アッツ島玉砕」を見ていて、7月20日に書き込んだブログを思い出した。
改めて引用すると、こうだ。


『明け方に西木正明著「氷海の幻日」を読み終えたが、恐らく西木の実体験小説だと思われる。
主人公・榎はふとしたことが機縁で、1970年になけなしの金をはたいてアラスカへ渡り、そこで、ユーコン川一帯に野草薬を売り歩くイヌイット=ジャック・カムロを知る。榎がジャックの薬行商を手伝ううち、二人の間に信頼関係が生まれる。その頃、ジャックが実は日本人なのだという噂を榎はたびたび耳にする。
その後、いろんなことがあって榎は日本に帰り、マスコミ関係の記者としてその日暮らしに追われていたのだが、20数年後の新聞記事でジャックが事故死したことを知り、再びアラスカを訪れる。
ジャックが日本人であったかどうかを知るため東奔西走し、ついに当時FBI職員だったオコーナーの口から真相を聞く。
ジャックは2600名の玉砕を報じられたアッツ島から上官の命令により脱出し、当時米にとって重要な戦略基地となっていたアラスカへ潜り込み、極秘裏にスパイ活動を行っていたのである。
職務とはいえ、ジャックを厳しく監視していたオコーナーの胸に同時並行的に彼に対する尊敬の念が増幅されていった。
榎に対するオコーナーの最後の言葉は、「君はまだ若いから、こんなことを謂ってもわかってくれないだろうが、人間、ある年齢になると、失われた時間がとてもかわいくなってくるんだよ」だった。
この太字の部分が、何故か知らん僕の胸にすうっと入った。』


2013/09/26 (木) 昨日の一日

昨日の午前中は、牧田事務所に6人が集まっての「とんぼさん・作家スタート祝賀会」が開かれ、ちょっと不謹慎だが、平日の午前中にもかかわらず、アルコールが振舞われた。実際のところ、集まる理由などどうでもいいのだけれども、やっぱり本の話が飛び交う場となり





僕はみんなの饒舌を聴きながら、ひたすら一升瓶「清酒・百貴船」をコップで飲んでいた。


皆が帰ってひと眠りしたあとCAD画面に向き合っていたら、某市議が来訪。個人情報保護法案のため内容は書けないが、議会の内部のことをいろいろ聞かされ、前の議会のことをいろいろ聞かれるうちに2時間が過ぎてしまった。

もう議会とは無縁なのだから、議会・行政関係の人との付き合いも徐々になくなるだろうと思うし、又そうなってくれなくては困る。余生は限られた気の合うわずかなひとたちだけとの交流で終わりたい。



午後7時、気の合うひとたち5人が集まっての会議が始まった。知らないうちに「昭和の時代」の話になった。このての話になると、何故か僕の精神は高揚する。散会時に「きょうはまきさんの独演会やったなあ」と言われたくらいだから高揚しきっていたのだろう。


問題はそのあとだ。皆が帰ってひとりになると急にさびしくなる。というか、自己嫌悪に陥る。
少年の頃、我が家の台所には「巧言令色鮮し仁」の貼り紙がしてあった。お袋は「男は黙っていなければならない」といつも言っていた。
「硬派宣言」から二ヶ月。きょうから、本当の男になりたい。


それはともかく
夕食時に妻から「おとうさんの事務所にくる人は、変わった人が多い。大体においておとうさん自身が変人で、結婚生活30年の間、理解に苦しんできた。やっと矛盾の束のような性格の形成過程がわかってきたが、でも、まだ慣れきっていない。・・ま、類は類を呼ぶというところか」と言われた。


2013/09/25 (水) 無題

重松清著「峠うどん物語」を読み終えた。上下二巻で計508頁はかなりの厚さ。若い時ならともかくこの歳になってくると、長編を読むだけの気力がなくなってくる。手足の、肌の、眼の、発声の衰えは、閉じこもりしていればいいだけの話で一向に気にならないが、読書気力の衰えはちょっと悲しい。重松の本とは当分さよならということで、昨晩は山本一力著「銀しゃり」(寛政年間の江戸前寿司職人・新吉の話)を読んでいた。


コーヒーブレイクの時、パソコンで「松岡正剛の千夜千冊」を開いて、小出裕章「隠される原子力」に出くわした。小出京大助教は9月15日に福井市中央公園で開かれた集会でも挨拶していたし、二年ほど前には講演も聴いた。大体において、原子物理学の話など、ある程度専門的に勉強した人以外の我々庶民にはわかるものではない。
だから私は、内容以外のところで感じられる彼の話しぶりから、誠実な信じられる人だと判断した。



以下は松岡正剛の「隠される原子力」についての解説の抜粋(というか、私の印象に残った部分。)


・・原子核には陽子と中性子がつなぐ結合力がある。この結合力を爆発的に解放させるのが核分裂で、このエネルギー解放の原理のしくみの研究から核兵器も原子炉も生まれた。
解放とは言うけれど、実はエネルギー誘導の原理と言ったほうかがいい。人類はその誘導に成功したマンハッタン計画によって禁断のルビコンの河を渡り、原子核にエンジニアリングの手を入れてしまったのである。
そのエンジニアリングをまとめて原子核工学という。
原子核工学は、原子物理学と原子核物理学を基本に、放射線および放射性物質を何らかのエネルギー・システムにいかすために探求されてきた。それゆえこの領域の入口は原子核物理における質量とエネルギーの関係をはじめ、核物理のイロハに理論的にもとづいているのだが、ということは、ここには「原爆と原発」という“双生児の原理”が必ず説かれているのだが、しかし本書がそうであるように、ふつうは原子核工学のメインになっているのは原子力発電の基本原理の技術化を詳述することにある。


どんな原子炉を設計し、どのように管理するかということが、原子核工学の長きにわたった目的だったのだ。これはアイゼンハワーの「平和のための原子力」という方針を受けたものでもあった。

原子核工学や原子炉をとりまいて、核問題が技術的にも社会的にも大きく広がっている。もともとは原水爆をめぐる議論からスタートしたのが日本における核問題で、そこにはいまや原発事故から放射能汚染問題まで含まれる。


世界で唯一の被爆国となった日本の核問題の歴史と展望については、当然ながらいろいろ類書があるが、公平にみて本書が最も広いテーマをわかりやすく、かつ一貫した思想によって扱っている。執筆陣も原水禁の和田長久・宮崎康男、高木仁三郎がつくった原子力資料情報室の西尾漠・勝田忠広・澤井正子をはじめ、小出裕章・今中哲二・小林圭二らの“熊取組”などが顔を揃えて、ていねいな解説を試みた。



第1部で「原子とは何か→核分裂と核融合→ウランとプルトニウム→放射線→放射性崩壊と半減期の意味→核燃料サイクル」という順に基本が解かれ、第2部で核兵器の大半の現状が説明され、第3部ではアメリカ・ロシア・中国からインド・イラン・パキスタンの核開発戦略のあらましが、第4部で原子力発電のしくみのABCがプルサーマル問題にいたるまで解説されている。
ぼくの実感からすると、最終ページに日本被団協や広島原水禁の代表を務めた森滝市郎の核絶対否定論がとりあげられているのが象徴的だった。



この本の著者は1965年に東京電力に入ったのち、中越地震のときに事故をおこした例の柏崎刈羽原発の所長を1995年から2年間務め、その後は東電の原子力本部長になったという経歴をもつ。これでわかるように、著者はあきらかに原発推進派の中心人物の一人なのである。


だからといって、この本が原発まるごとの安全宣言をしているわけではない。むろん危険だという警告をしているのでもない。何が起これば危険で、だからこういうふうに制御するのだということを技術のほうに寄りながら、ぬらくらと、しかし平易には書いている。安全と危険が隣り合わせであることも、あまり熱心ではないけれど、とくに隠しだてもせず書いてある。


どこかで原発推進派の啓蒙書ともいうべき本を読んでおこうと思って物色したもののうち、この本が最も平均的に感じられたのでざっと読んだのだが、件の広瀬隆(1448夜)のものなどまったく読んだことがない読者がこの手の本を読めば、原発がとてもマイルドなプラントのように感じられてしまうように書いてある。原子力発電の問題を、巧みに溝にはまらないように、また言いまわしも意図的にエレガントに扱っているのである。


上記の榎本聰明『原子力発電がよくわかる本』は、いわば安全と危険のレベルを巧みにホゾを合わすように書いていたのだが、つまりグレーゾーンを巧みにすり抜けていたのだが、本書は原発設計者がはっきりと「原子炉は本来が危険なものであってあって、安全ではない」という立場を貫いている点に最大の特徴がある。


とくに、原発は「安全になっている」のではなく、「安全にできるようにしてある」にすぎないと言っている姿勢がいい。だから、著者はこう言うのだ、「原発ではできることをしないかぎり、いつだって安全ではない」。
 ほぼ専門レベルの話がぎっしりつまっているのに、妙におもしろかった。かつての京都大学原子炉実験所長で、KUR(京大炉)の設計責任者だった著者が、当時をふりかえってかなり縦横無尽に原子炉談義をしたもので、月刊「産業とエネルギー」という雑誌に連載されたエッセイをまとめた。前身が『原子炉お節介学入門』(2000・11)で、本書はその新版だ。



談義はあくまで原子核工学ふうなのである。一応はエッセイ調になってはいるのだが、内容はかなり細部にわたる。だから大小の技術論が400ページに及ぶ大半を埋めているのに、すらすら読めて妙におもしろい。
 おもしろいというと誤解を招くだろうから言い換えておけば、原子核工学のみならず、工学の深部のツボを十全に心得た本になっている。本人は、事故はたいてい「つまらないこと」でおきるものだが、本書はその「つまらないこと」をできるだけ多く説明しようとしたと書いている。


とくに「危険の兆候は決してデジタルにはやってこない」ということを、さまざまな例を通して繰り返しのべているあたり、この著者の真骨頂があった。いったいどんな御仁だったか知りたいものだが、巻末に人物評を寄せた内田岱二郎はたんに「とにかく口の悪い人だった」と言っているだけで、なんの参考にもならなかった。


おそらくは観察眼がめっぽう鋭く、つねに自分がその対象やしくみにかかわったときは何をすればいいかを考え続けてきた御仁だったのだったろう。わが編集工学的にいえば、つまりは「お題をたてる名人」だったのだろうと思われる。



一例を紹介しておく。
過日、著者がベルギーのモル研究所を訪れてBR-2という高中性子束の材料照射用原子炉を見学したと思われたい。2000人ほどの所員をかかえる研究所だった。
 当時のBR-2は軽水減速の炉心が6万キロワットほどの大出力炉で、その減速材の中に照射用ループを設けて、高速炉の燃料の照射試験をしていた。この燃料は自身の核分裂のため高温になっていく。そこで冷却しなければならない。モル研では高速炉と同様にナトリウムを流していた。著者はこんなものを炉水の中に入れるのは大変だろうと推理して、きっとループ構造に工夫があるのだろうと思い、そのことについて質問してみた。0・6ミリの薄肉のステンレス管で作ったという。
では、当然、溶接しているのだろう。そのころの日本では0・6ミリを溶接したものをこの手の複雑きわまりない設備に使える技術はない。「よく二重管を溶接できましたね」と褒めたら、「いや、一重管です」という答がかえってきた。衝撃的だった。


柴田は気をとりなおして重ねて聞いた。どのくらい照射するのですか。「わからない」と言う。質問の英語が悪かったのかと思いまたまた聞いてみると、「燃料が壊れるまで照射する」のだと言う。ここで柴田はギャフンとなった。


二重管ならばそのあいだに漏れ検出のためのセンサーを設けないといけないだろうが、炉心からの水と内部からのナトリウムの両方の漏れをチェックできる検出器を管の中に設置するのは不可能だという判断が、モル研にはあったのである。そう言って、担当者は「ねえ、そうでしょう」とニヤッと笑った。著者はこの笑えるほどの警戒と自信がどこから出てくるのか関心をもった。


帰国後、さまざまな実験をした。炉心容器の円筒は内側が軽水で、外側は重水である。こちらは水漏れセンサーを一番下方に設ければいい。ナトリウムのループ管を作っていろいろ試みると、漏れが部分的な欠陥から噴水状に出てくることがわかった。モル研ではこれらのことをすべて試したうえで一重管でいけると確信したのだったろう。


著者はあらためて考えた。これらのことをクリアするには、これらのことを組織全体が認識できていなければならない。われわれは、そのような組織をつくりあげるために、つねに工学的な問いを発し続けてきたのだろうか、と。



機械は責任をとらない。スイッチを入れるのもオフるのも人間なのである。原子核工学といえども、献身的な努力とそれに見合う組織対応がないかぎり、機械を動かすことにはならない。それでも事故がおきたときは、すべての責任を人間と組織がとるべきなのである。
フクシマの原発事故にかぎらず、事故のほとんどは人災なのである。それを誰も言い逃れすることは許されない。



日本の反原発の科学技術者として、最も良心的でラディカルだろうといわれているのが小出裕章である。KUR(京大炉)を作った柴田俊一が親分だった京都大学原子炉実験所の助教だが、1949年生まれで実績も十分なのに助教のままであるのは、37年間にわたって助手に据え置きされているということであり、ここには当然、その昇格を阻むものが大学人事にあるからだ。


もっとも小出はそういう立場にいることに呆れてはいるものの、不満があるわけではないらしい。仲間もいる。京大原子炉実験所は大阪府泉南の熊取町にある。そこで「熊取六人組」と呼ばれているのだが、この6人組が仲間なのだ。海老沢徹・小林圭二・川野眞治・今中哲二・瀬尾健(故人)。いずれも筋金入りの反原発派の面々だ。


柴田の組織のもとにこのような6人が登場してきたことについては、ぼくが知らないさまざまな事情があるのかもしれないが、それでも京大原子炉実験所が研究組織として機能しつづけているというのは、たいへんユニークなことである。ただ反原発派はみんな似たような境遇に置かれることになっているらしく、大学の中ではちょっぴり不遇をかこつのである。しかしそれが仲間だと思えば、小出は平気なんだと言う。


ちなみに京大にはこのように反原発の原子力研究者がいるのに対して、東大には一人もいないとされている。原発廃絶のために原子炉研究を続けているのは京大だけなのだ。小出自身は1970年10月に女川町で開かれた原発反対集会に参加したときに、反原発の道を歩み始めていた。



その小出が単著として初めて世に問うたのが、本書『隠される原子力:核の真実』だった。原子炉研究者の反原発論として注目された。
それから僅か数カ月で3・11となり、福島第一原発メルトダウンがおこった。政府も東電もそのことを隠していたが、そのうちバレた。まさに原発は小出お見通しのとおりの「隠される原子力」だったのである。
その後、小出の本は各社が競うようにして次々に出た。『原発のウソ』『原発はいらない』『原発のない世界へ』などなどだ。週刊誌や講演会にものべつ引っ張り出された。


ところが、それらの本はすべて講演やインタヴューや対話で構成されていて、小出がしっかりと文章を練り上げてはいない。そこは柴田とはまったく違うのだ。そのためときどき話題や論旨が前後したりする。


これだけの本気の筋金入りがどうして決定打を放たないのだろうと思っていたが、おそらくゆっくり書いている暇などはなく、そんな気持ちにもなれないのであろう。また執筆よりは実践なのでもあろう。ぼくも、この人はそういう人なのだと納得した。それでも、これらの本のどんな本の端々にも小出の哲学や技術観は鋭く突出しているし、とくに原子炉を扱う研究者としての痛哭に近いほどの責任の重さは、どのページにも滲み出ている。



小出は好んでマハトマ・ガンジーの墓碑に記されている「七つの大罪」を引く。よく知られているだろうが、こういうものだ。もし知らないのだったら、よくよく味わってほしい。「理念なき政治」「労働なき富」「良心なき快楽」「人格なき知識」「道徳なき商業」、そして「人間性なき科学」「献身なき崇拝」である。
小出とともにあらためて言うべきだ。いま、日本全部がこの大罪とのみ闘うべきである、と。


こうして全共闘闘士としての姿はいっさい見えなくなったのだった。本来の科学史の深部に降りていったからだった。
その山本がついに現実社会に向かって発言したのがこの小冊子である。「みすず」に原発事故についての文章を求められて原稿を書いてみたところ、つい長くなってきたので、連載にでもしてもらおうとおそるおそる提案したら、それなら単行本にしましょうと言われて刊行されたものらしい。


中身は一言でいえば、日本が原発開発と設置にしゃにむに向かっていった事情に静かに「待った」をかけている本である。
とくに思想的に新しい見方が書いてあるのではない。とくに新しい科学思想が述べられているのでもない。反原発派ならはたいていは知っていることが淡々と述べられて、途中に吉田義久『アメリカの核支配と日本の核武装』(編集工房朔)、鈴木真奈美『核大国化する日本』(平凡社新書)、ジェローム・ラベッツ『科学神話の終焉とポスト・ノーマル・サイエンス』(こぶし書房)、高木仁三郎『プルトニウムの恐怖』(岩波新書)などを引きつつ、山本が原発事故を引き起こした科学技術の近現代史をふりかえるというふうになっている。


最後にぽつりと提示される言葉は「原発ファシズム」だ。
これは佐藤栄佐久が『知事抹殺』(平凡社)や『福島原発の真実』(平凡社新書)で国のやりかたを徹底批判したこと、および菊地洋一が『原発をつくった私が、原発に反対する理由』(角川書店)のなかで、原発は「配管のおばけ」だと言ってのけたことなどを受けて、日本の政治と経済がまるごと推進してきたのは原発ファシズムとしか思えないというところから出てきた言葉であるが、この批判用語は山本にしてはいささかおおざっぱであった。


それよりも山本義隆が次のように断定してみせたことのほうに、やっぱり説得力があった。要約して、次のような主旨だ。
「‥原発の放射性廃棄物が有毒な放射線を放出するという性質は、原子核の性質、つまり核力による陽子と中性子の結合のもたらす性質であり、こんなものを化学的処理で変えることはできない。核力による結合が化学結合にくらべて桁違いに大きいからだ。‥ということは放射性物質を無害化することも寿命を短縮することも不可能だということだ。‥とするならば、無害化不可能な有毒物質を稼働にともなって生み出しつづける原子力発電は、あきらかに未熟な技術と言わざるをえない。‥ヒロシマとナガサキとフクシマを体験した日本は、ただちに脱原爆社会と脱原発社会を宣言し、そのモデルを世界に示すべきではあるまいか」



 2013/09/24 (火) きょうから仕事再稼動

悩むことが多くなってきたので、人間関係の達人・Aさん宅を訪問し悩みを打ち明けた。答えは「案ずるより死ぬが易し」で、これをどう解釈するかについてはなかなかむつかしい。10代の終わり頃が、多分一番悩んだ時期だったと思うが、人生の終盤に、又、悩む時期に入ったようだ。


街を歩いていて人の顔をみると、ドキっとすることがよくある。頬骨が浮き出ているような、もっと言うと人が骸骨に見えてくる。さすがに、そう見える人は若い人ではなく中年以降に多いのだが、生きているような死んでいるようなつまり生死を超えた存在に見えてくる。


これは異常心理なのだろうと、ひとまずは思う。しかし正常と異常の境は、マジョリテイかマイノリテイかという単に数の問題であって、自分が異常だと感じれば、そう感じれる自分は正常なのだと納得。


ま、異常でも正常でも構わないが、こう感じる理由のひとつに、自分に染み付いてしまった転生輪廻感があるのだろう。昔、加賀国をドライブしていた時、助手席が、「牧田さん、私は亡くなった人のことを想う時、どうしても永遠の別れになったとは思えないの。その人が転生してこの世に私と一緒に居ると思うの。居てもらわなくちゃ困るのよ」と言った。私の転生輪廻感も、この言葉に強い影響を受けていると思われる。
ということはともかくとして
本日の午後2時45分、「まきちゃんと一緒や・・今、シートベルト違反で捕まってしもたあ!」という電話がY氏から入ってきた。


確かに私はシートベルト装着の常習違反者で、3年ほど前にはシートベルト違反だけで一ヶ月免停(講習をうけたことにより一日だけの免停)になったし、数日前には「あと一回すると一ヶ月免停です」というケーサツからの通告書が又届いた。


しかし私は民間人なので単なる軽犯罪者レッテル貼りで済むのに対して、Y氏はれっきとした現職市議である。市議は市民の鏡である(・・私はそう思っていないけど・・)と市民から思われている。市議にしろ行政職員にしろ気をつけていただきたい。


 2013/09/23 (月) 連休最終日

私が金をかけるのは酒と煙草とDVDレンタルだけで、ほかのことには金をかけない。例えば私の一番の趣味は読書だが、全て図書館で借りるのでタダだ。飲み会のほとんどは事務所・応接コーナーでするので、一人あたりの出費は千円前後で済む。

そういう私に変化が生じた。服装に金をかけるようになったのである。
数週間前に妻から「おとうさんは議員の間はいつもネクタイ・スーツという窮屈そうなノーマルファッションだった。けど、今は違う。個性的なファッションを目指すようになった。今の方が数倍いい」と言われた。

私はのめりこんだものには金をおしまない。しかし金が充分ではないので、「オフハウス」で購入する。なんでもいいのだ。格好よければそれでいいのだ。



ということで、昨晩の事務所は5人の飲み食いで賑わったが、夜に弱い私は途中から場を抜け出しオープンカフェに出て、月明かりのなかで眠ってしまった。


 2013/09/22 (日) ふるさと語ろう会・例会

昨日は、湯のまち公民館に於いて、福岡昭子さんの話を聞いた。


福岡さんは、福井県内における源平合戦ゆかりの地を歩き続けてきたひと。
福岡さん作製のレジュメによれば
●①安徳天皇(あわら市北潟)・・清盛の娘、徳子と高倉天皇の子。
源平合戦の時、9歳の天皇は時子に抱かれ海中に沈むとあるが、身代わりを立て、別船で浜字五本松の浦(北潟)に上陸されたとも伝わる。
●②平経盛(旧美山町赤谷)・・清盛の孫、重盛の長男で平家の直系。
木曽義仲の上洛攻撃では総大将として指揮をとるが、倶利迦羅・篠原の両合戦で大敗し、平家都落ちの際は屋島で戦列を離れ、熊野灘へ入水とあるが、各地を隠棲後、鯖江上河内より山越えで入り、赤谷村の祖になったと伝わる。
●③源範盛(旧今立市東庄境)・・源頼朝の弟で義経の兄。平家との戦いは義経と同行。曽我兄弟の仇討ち事件に際し、源頼朝妻への一言が頼朝の誤解を招き、伊豆修善寺に幽閉されたとあるが、壇ノ浦で助けた女人、日吉御前(今立は父平通盛の領地)を側室としているので、今立へ逃亡し余生を送ったという。
●④源義平(大野市和泉村朝日)・・源義朝の長男。平治の乱後、父と別れ飛騨の石撤白に下り穴間朝日に逃げ込む。世話を受けた村長の娘おみつは懐妊中だったが父の殺害を知り、おみつには太刀・旗・笛を授け、仇清盛を討たんと京へ向かうが捕らわれ六条河原で処刑。母子は尼となり笛を吹いて父を弔った。

④の和泉村朝日へは今年の春に4人で行って、義平の子孫から「青葉の笛」の説明をうけたのだが、その他は行ったことがない。ぼくが今からやりたいと思っている小さな旅の行き先は、わざわざ加賀国・近江国等の遠方でなくても越前国内で原石を拾い集めることで充分じゃないかと思った。

福岡さんは福井市歴史ボランテイア「語り部」所属。語り部は普通、元教師や公務員が多いのだが、福岡さんは田圃仕事、家庭の味づくり仕事に追われてきた「近所のおばちゃん」風でその体験内容がしゃべりの軸足。とにかく知識人的な整理整頓されたしゃべりでないところにいい味が出ていた。


 2013/09/21 (土) もう土曜日か

「居酒屋おまき」の新装開店お披露目パーテイーを目前に控えて、ぼくはその準備に忙しい。昨日も極上の座布団を8枚買ってきて、ソファーの上においてみた。和風の味を出すためには、布の仕掛けが不可欠だと思うので、本日は絹布のみつくろいに行ってくるつもりだ。




それはともかく
「不倒の城 前田利家」の朝倉・浅井の滅亡に言及したところでこういうことが書いてあった。
「・・浅井長政から救援を乞われていた朝倉義景が、敦賀を発ったのも、同じ九日であった。武将というよりも文人的で、優雅な生活を好み、戦場嫌いだった義景は、一向一揆とのたびたびの戦いにも、一族の誰かを将として差し向け、自分は一乗谷の館に在って、美女を擁して歌舞音曲の楽しみに浸るという風であった。・・」

これでは朝倉家が三代で滅亡したのも無理はない。戦国武将として風上にもおけぬ男だったのだ。
しかしぼくが朝倉三代目だったとしたらどういう行動をとっただろうか。誰であれ人殺しは嫌だ。戦場に出向くよりも美女侍らせての歌舞音曲三昧がいいに決まっている。だけれども戦乱の世を収束させるために質実冒険を心に課して他の武将達は戦場を走り回った。しかし義景は国家のために自分が在るのではなく、自分のために自分が在ると思ったのだろう。正直な人だったのだろう。


 2013/09/20 (金) 旅急遽中止・・鬱進行故

杉本繁男先生が亡くなり、妻と一緒に通夜席へ出かけた。杉本先生の娘さんが、妻の高校時代の親友という関係で、妻が金津へ嫁入りした当時からさかんに交流があったし、私自身も先生とは縁があったということが一緒に出かけた理由。

焼香の時、祭壇に飾られた遺影写真の穏やかさにしばし見とれた。その時連想したのが5,6年前に先生からいただいたご本で、


その中のお孫さんの運動会で感じたことを詩に書いていた部分。

第六位
わしの孫は
走るのが苦手でね
六人走れば
きっと六位さ

昨日の運動会でも六番目に走っていたよ
ところが五番目の園児が
ころんだのさ
わしの孫は
その園児が
たちあがるのを待っていたよ

そして
六位を守ったのだよ

お孫さんを見つめる優しいまなざしがこの写真にぴったり重なった。

通夜の席を出て自宅に戻るまでは、「死に関して」が話のテーマとなった。妻から、「おとうさんも子供たちの結婚式までは生きていなあかんよ」と言われた。
私の萎えた身体と心に対する励ましの言葉と受け取りたい。


それはともかく
今朝の起床(2時)から夜明けまで、私は、花村奨著「不倒の城 前田利家」を読み続けていた。昼間は来訪客への応対とCADに追われる身なので、この時間帯だけが読書時間となる。不思議なもので、余命いくばくもないと悟ってくると、活字にできるだけ触れていたいという欲望が増してくる。

この本で、若い頃の前田利家が織田信長に負けず劣らずのかぶき者であったことがよくわかった。皆からあざけられる者嫌われる者が天下をとっていくという構造が戦国時代にはあったのだろう。そりゃそうだ。優等生にはインパクトがない・・それは、みんなからよく思われたいという打算が胸中にあるからで信念を育てる力にはなり得ないからだ。

その点、かぶき者は服装にとらわれず立ち居振る舞いに他人の視線を気にしない。好きなふうに生きていくから、詩人の魂が育っていくのだと思う。詩人の魂が革命家には必要で、だから信長は本能寺でこの世とおさらばし、地道な実務家の徳川家康が徳川幕藩体制250年の礎を築いた。

「織田がつき 羽柴がこねし天下餅 座りしままに 食ふは徳川」となるのである。

手話サークル「かけ橋」会員の皆様へ
昨晩、聾唖のKさん夫婦が来て皆さんをずうっと待っていました。「27日に予定されている福祉大会についての相談をしたかった」と言ってました。寂しそうでした。
私のことはどのみち新装開店の「居酒屋おまき」に居るので構いませんが、来れない場合はその旨をメールすることが、最低限のルールだと思います。


 2013/09/18 (水) 九月も半ば

このちっぽけなブログを読んでくれている方を思い浮かべて数えてみても7人か8人で、つまりこのブログはパソコン通信みたいなものだ。そういう感覚で日々を書いているので少々プライベートなことを書いても構わないと思い、一ヶ月ほど前にこのブログで「私は硬派転向」を宣言した。それからあとの読書は硬い本ばかりとなった。

昨日の昼下がりも、対談集「日本海軍はなぜ過ったか」(澤地久枝、半藤一利、戸高一成)を読んでいたら



病いから回復した西川憲弥氏が突然来訪。
西川先生もこの本を読んでいるみたいで、「日本海軍の一番の大きな過ちは何だったと思いますか」と、私に問う。

「いやあ、私は硬派に転向してまだ一ヶ月なので、頭の芯がぶれていてよくわかりません。しかし、これから地道に勉強していきたいと思います」と答えるしかなかった。

そして和調に衣替えした事務所応接コーナー()に戦争体験者を招いて



太平洋戦争の話をなるべくはやく聞きたいと思った。何故ならば頭に浮かぶ講師候補の人たちは、80歳代後半から90歳代前半で、いつ死んでもおかしくない世代なのだから。死ぬ前に語らなければならない。語ることが最終的な使命だと思うからだ。

それはともかく
半藤一利は、この本のあとがきでこう書いている。
「これからの日本はやっぱり、私たち年寄りじゃなくて、若い方たちがつくっていくわけです。バブル崩壊後の二十年余、この国がいま、どっちに向いていこうとしているのか、非常に不安なところもあるかと思います。しかし、未来を切りひらいていくのは若い方たちですから、自分たちで、こういう国をつくりたいという、しっかりとした国家目標を定めて、一生懸命勉強をしてください。勉強をすること以外では、若い人たちの特権はないと思う。年よりはもう、勉強はできません。勉強しても頭に残りませんから。うんと勉強をして、あらゆることを知って、これからの日本をどういうふうにつくっていこうかということを、自分で考えて、そっちの方向にしっかりと歩みを進めていただきたい。そういうふうに思います。
 日本の国は、明治の人たちがつくってきた近代日本というものを、大正・昭和戦前の人たちが選択を誤ったために、あっという間に滅ぼしてしまいました。だから、これからの選択を誤らないためには一生懸命勉強をして、あらゆることを知って、これからの日本というものを、自分たちの思っているような国家像を描きながら、正しく判断をして、それに進んでほしい、とお願いしたいと思います。
 日本よ、いつまでも平和で、穏やかな国であれ、そう願っています。」


 2013/09/17 (火) 今はもう秋

これをなんだと思いますか。


・・これはゼリーなどを使っていない手製の富津薩摩芋キントン(メイドバイH氏)である。現在、味のメッセージで越前国は加賀国に完全に遅れをとっている。越前なかんづくあわら市は豊富な農産物を出荷しているにも関わらず二次化で遅れをとっている。あわら市の農業従事者は二次化つまり商品化で知恵を出さねばならない。

本日の午前10時、私はこれを議会事務局に持っていった。7分割して試食してもらった。試食したあと「美味しいわ」と言う声がでたのが嬉しかった。



それはともかく、台風一過で本格的な秋となった。
子供の頃の私は秋が一番嫌いだった。何故ならば学校から帰ってくると、毎日毎日稲刈りを手伝わされたからである。

今と違い農業が機械化されていなかったので、全身で手伝わなければならなかった。ハサにかけて天日干しした稲藁を荷車で農舎まで運ぶのを義務付けられていた。空の荷車を引いて田圃まで戻ってくると、祖母さんが「いい子やのう」と言って煙草(若葉)を一本ずつくれた。田圃に寝転んで秋空を見上げながらの一服は実に美味かったのだが、その時の私は中学生だったのだから、いまさら煙草をやめられない。

家族よりもひとあし先に自宅に戻り、家の縁板拭掃除を終えたあとの仕事は風呂焚きだった。このブログをみている若い諸君!(誰もみてないか・・)風呂焚きを馬鹿にしてはいけない。現在の電気orガスと違って五右衛門風呂にはられた水をあっためる熱源は薪である。
先ず新聞紙にマッチで火を点ける。次に裏山で拾い集めた杉葉を乗せる。次にマサカリで割った薪を乗せる。当然のことながら、ながら族にはなれない。風呂釜の前にへばりつき、燃え盛る炎を見続ける。

退屈なので、金津小学校6年東組のクラスメートと遊んだ一日を回顧していた。あこがれの〇〇子ちゃんの笑顔が薪の炎の向こう側に見えてその都度私はため息をついていた。。
(注; 現在のそしてこれから死ぬまでのあこがれの女(ひと)の名前の末尾は「子」ではない。しかしこれ以上を書くと個人情報保護法に抵触するのでやめる)。

稲刈り、ハサがけ、荷車引きのあとの田圃の風景・・稲株だけが残っている。
私は祖母さんと一緒に田圃の落穂を拾い歩いた。
現在の私がムンクの「叫び」と同じほど好きな絵が、ミレーの「落穂拾い」であるのは、この時の体験によると思われる。

私は農本主義者である。だって、私の家の台所の壁に貼られていた家訓には「人の一生は重い荷物を背負うて歩むがごとし」という徳川家康の言葉が書いてあったのだから。しかし、もう今の私には無理だから、来世で立派な農本主義者として生きたい。

問題は来世が地獄なのか極楽なのかだ。地獄に落ちる可能性がゼロとは言えないのである。
昔から私は「軽犯罪のぎゅうさん」と呼ばれてきた。「ニッパのぎゅうさん」と呼ばれてきた。何故そう呼ばれてきたかを書くことは、個人情報保護法に抵触するのでやめときます。


2013/09/16 (月) きょうも部屋のなか

昨晩は、某寿司屋において、「牧田さん、ながい間ご苦労さんでした会」を開いていただいた。


美人から花束を受け取るこざっぱりした服装の私(写真右側)の照れたしかしなんとシアワセそうな顔よ。

この会では、達川氏が座の中心になるのが定例だ。昨晩の場合は、8月に氏が企画して開いた「バイオリンコンサートと遺跡展」についての回顧が話の中心軸となった。私より三歳若いのにも関わらずのあの若人的機関銃的弁舌はどこから出てくるのだろうか。

7人での生ビールを飲みながらのワイワイガヤガヤは数時間続いたが、最後に私は、「次回は、和調にリニューアルした私の事務所でやりましょう。私はすすきの生け花で皆さんを迎えます。」の言葉で締めくくった。(注:両脇に女性が座らなかった会は久しぶりだったが、充分楽しかった)



昨日の午後は、脱原発を訴える集会の開かれた福井市・中央公園へ。県内よりもむしろ県外からの参加者が多かったのではないか。昔、行動を共にしていた何人かの友人から声をかけられなつかしかった。



しかし一番感慨深かったのは中央公園そのものだ。その芝生の上で、35年前に私は中年の男におそわれたのである。いまとなってはそれもなつかしい思い出だ。


大雨警報が発令されたので、今朝、旧金津町内を回った。
確かに、竹田川の水かさは増している。


観音川河口では川のウオーターラインが田圃と同じ程になっていて、何台もの消防車は排水作業に懸命だった。



2013/09/15 (日) 雨の夜明け

家族以外誰とも顔を合わせない生活が三日間続いている。それは外へも出ない蟄居生活で、最近は時々ある。こういうのは孤独で寂しいものなんだろうなあと思っていたが、実は全然違うのだ。

事務所を整理整頓し床を艶が出るほどに磨いていると心にも艶がでる。仕事に必要な建築本以外の本をどんどん捨てている時にセピア色の写真を本のあわいに発見すると、その写真が撮られた時代にタイムスリップする。「俺には過去がない」が持論ではあるのだけれども、やっぱり過去はついてまわるのだ。
ソファに寝転んで小説を読み始めると、俄然にぎやかになる。ストーリーが面白いと中断が難しい。しかし、やる時にはやる。
時間を決めて、本来の仕事であるCAD画面に向かうのだ。その時、凛とした気分になる。


2013/09/14 (土) 無題 

本日は、午前6時からの明社による環境美化運動から始まった。


夏の終わりが近づいた早朝の空気はひんやりとして気持ちがいい。

それはともかく
二日前に読み始めた重松清の長編「きみ去りしのち」が最終稿に入って僕は大きなため息をついた。

中年会社員・関根は再婚相手・洋子との間に由紀也をもうけるが、彼は、一歳の誕生日を過ぎた頃、不慮の病気で命を失う。
関根は、前妻・美恵子に由紀也の死を知らせたあと、心の空白を埋めるために、あてどのない旅に出る。しかし、その旅は関根が拒否したにも関わらず美恵子との間にできた長女・明日香を同行しての旅となる。そして、旅先で明日香から美恵子が末期癌で余命幾許もないことを知らされる。

関根は、旅先の風景や旅先で出会った人たちとの交流を通じて、逝った由紀也を想い、涙の止まらない洋子の悲嘆を想い、逝きつつある美恵子の心を想う。
私はぐいぐい引き込まれていった。この小説家がどのような過去を持つ男かは全く知らないが、登場人物の心の襞をあぶりだす筆力は間違いないと思う。


2013/09/13 (金)  もう週末か

この五年間、私は午後7時半就寝・午前2時半起床の生活を続けている。よってテレビを先ず見ない。例外は大リーグ中継だけだ。

だから、今はやっている番組の主演俳優がどうのこうのという会話についていくことが全くできず、その意味では取り残された浦島太郎的人間だ。

そのかわり、一日の始まりを日々実感できている。
虫の音以外なんにも聞こえない静寂の世界が、牛乳配達の音・新聞配達の音・早起き鳥の鳴き声などで徐々に喧騒の世界となっていくのを目の当たりにする。そして西の空から顔をのぞかせるまばゆい朝陽と対面する時、エクスタシーが体内をかけめぐるのである。

こういう生活になった直接のきっかけは、六年前の入院生活にある。
それまでの私はどちらかというと夜型人間だった。夜になると事務所(当時はプレファブ2階)に人が集まり、なんやかんやとしゃべり合っていた。煙草の煙がもうもうでそこらあたりには酒の瓶が転がっていた。嫁はんの「寝る時は必ず自宅で寝なさい」という再三の忠告にも耳を貸そうとせず、事務所でいつのまにか眠りこけている生活が続いた。そしてついに脳内出血で倒れてしまった。

しかし、六年前の入院生活で、同室のあるいは同フロアーの患者たちとの会話を通して、「生きるとはどういうことなのか」を考える人間に私はなった。
一緒にリハビリに励んだ某女性の口癖は「私、今度倒れたら死ぬのよ」だった。私が退院して数週間後に彼女の死亡記事を新聞で見た時は、頭を金鎚で叩かれた思いだった。・・あれからもう六年が経った。

当時とは180度違う今の生活を大事にしたい。よりよい生活を目指したい。
焼酎好きの私が白ワインに変えたのも健康のためである。とは言ってもそれは原則の話で、昨晩はウイスキーをロックで飲んでいた。
禁煙は不可能と悟ったので、節煙を目指したい。せめて一日一箱におさえたい。
カラオケで「港町ブルース」を歌うのは、先日行った焼肉カラオケでの血圧上昇的熱唱をもってこの世での最後としたい。
今後は布施明「そっとおやすみ」とトニーダララ「ラノビア」を持ち歌とするつもりです。



2013/09/12 (木)  昨日の一日

加賀の旅が一段落したのでつぎの旅をどこにしようか・・「沖永良部へ行きたしと思へど沖永良部はあまりにも遠し」と悩んでいたら、頭をよぎったのが「しれとこ旅情」のメロデイ。
20代のはじめだったか、赤倉スキー場で開かれたかまくらまつり・歌コンテストに「Nくんがギター・僕がボーカル」というカタチでこの歌をひっさげて出場した。結果は確か二等賞だった。但し出場したのは、3チームだからあまり自慢にはならない。

それはともかく

一昨日と昨日の午前中は、総務文教常任委員会を傍聴。懸案となっているいくつかの議案についてどう論議されるかが気になっていたからである。本日の厚生経済常任委員会も傍聴しようと思う。

午後は福井市内のK設計事務所所長と打ち合わせ。仕事の打ち合わせの合間に昔を思い出して語り合った。同じ設計事務所に勤めていたので、話ははずむ。

若かったあの頃は未来の可能性を信じており目は輝いていた。しかし、幾星霜で挫折ばかりを繰り返し、目の輝きは次第に失われていった。まことに「人生は可能性のひとつひとつを消しゴムで消していく行為である(寺山修司)」。今の目は完全に腐っているのだが、不思議なことに、若い頃よりももてる。僕としては一人の女(ひと)だけにもてるのを目指しているので、多くの女たちにもてるのは迷惑なのだが、それはともかくとして、「人間は腐っていく時に一番いい味が出る(僕の友人説)」は本当だ。

夜は6人が集まってこの国の原発政策を憂いた。
↓参考ちらし
原発関係・案内
韓国反核市民訪問団との交流会

 2013/09/11 (水) 謝辞

昨晩は、心が洗われました。お付き合いくださいましたお二人の方、ありがとうございました。

 2013/09/10 (火) 昨日は一般質問 
 
 昨日は、あわら市会本会議・一般質問の日だったので、会議場へ傍聴にでかけた。傍聴席はマスコミ以外全部知っているひとだったので、僕は、なんとなくピクニック気分だった。質問者は10人。ひとりを除いて日頃言動を交わしてきたひとばかりなので、私的な場と公的な場とでの発語の落差を考えることができて面白かったし、考えてみればこれまで15年間は傍聴される側だったのでこういうことはわからなかった。
 
 傍聴席からは18人の議員の後頭部しか見えない。それぞれの髪が濃淡の差はあっても薄くなっている。これからも一般質問くらいは傍聴に来ようと思った。

 午前中に4人が終わり事務所へ戻って軽めのカレーライスを食べていた時、女性が入ってきた。事務所へ女性が来るなんて絶えてないことだ。うろたえている僕に、「山川(知)議員の質問は終わったのですか?」と聞くので、「昼からです」と答えた。嬉しそうな顔をして帰ったので、どうも山川(知)ファンらしい。

 午後1時前にY氏に迎えにきてもらい再び本会議場へ。(注;僕の車のバッテリーがあがってしまい動かなくなってしまったのだ。コンプレッサーといいバッテリーといい故障続きであることは僕の身体とおんなじで、僕の寿命が燃え尽きる時と車がクラッシュアップする時が同じであれば理想的なんだがなあ、と思った。)

 午後3時に一般質問が終わり、事務所で4人が批評会。これをそのままここに書くことは差しさわりがあるので省略。

皆が帰ったあと、トリスウイスキー片手に重松清著「気をつけ、礼」を開く。「この人は作家になる前、教師をやっていたのかな?」と思いながら午前3時に読み終えた。読み終えてオープンカフェに出ると美しい星空だ。本当に来世があるのなら、地獄より極楽がいいと思った。

 2013/09/09 (月) 脚気
 
 日がな一日、誰とも会わず読書に専念して、夜遅く、吉村昭著「白い航跡(上・下)」を読了。

 物語は、慶応四年の鳥羽伏見の戦いから始まる。
「総くずれとなった幕府軍は敗走し大阪城にいた将軍慶喜は城を脱出し、海路、江戸に落ちのびた。朝廷は、慶喜追討令を発して、新政府樹立を宣言。新政府軍は総数約5万で、主力は薩摩、長州それに土佐藩の兵であった。

 江戸開城に憤激した幕臣や諸藩の脱藩士たちが、上野寛永寺に屯所をおく彰義隊にぞくぞくと参加し、新政府軍はこれを鎮撫しようとしたが効果はみられなかった。東征大総督は、軍防事務局権判事大村益次郎の建議をいれて彰義隊討伐を命令した。五月十五日、大村の指揮のもとに新政府軍は上野を包囲し、砲火を浴びせて彰義隊を壊滅させた。その後、房総と武蔵で掃討がつづけられ、抵抗勢力は完全に一掃された。
新政府に残された最大の課題は、奥羽全域を支配下におくことであった。
奥羽地方では、会津藩が抗戦派の中心で、すでに東征大総督はこれを賊軍として追討の軍を進めていた・・」

 その新政府軍のなかに薩摩藩兵と共に軍医としていたのが、この物語の主人公・高木兼寛である。大工の息子として生まれながら、医学の道を志し徐々に腕をあげていく過程で関わったのがこの奥羽戦争で、兼寛は、奥羽列藩の要であった会津城が落城し、松平容保親子が捕縛され籠に入れられて引っ張られるのを見て涙を禁じ得なかった。まことに医学の道、看護の道には敵も味方もないのである。

 彼はこの戦乱で己のふがいなさを、嫌というほど味わった。風邪の患者が風邪薬をもらいにくるのとはわけが違うのである。弾丸が体内に食い込み肉が壊死していくのをただ眺めるしかなかった。

 そして、(ここから実質的に物語が始まると言っていい)重症患者が野戦病院に運ばれ、そこでイギリス人医師が患者に局部麻酔をしたあと、メスを使って肉を切り刻んで弾丸を取り出したり、鋸を使って足を切断したりする手術を目の当たりにして、恐怖を覚えながらもイギリス医学界の先進性に目を開かれていく。

 もともと、薩摩藩は薩英戦争のあとイギリスと和睦してから、なにごとにつけイギリスを範とするようになる。明治新政府が、基礎理論重視のドイツを範とした(その中心に森鴎外がいた)のとは対照的に臨床結果主義を主流とするイギリスから近代医学を学ぶようになり、勿論、兼寛もそのなかにいた。

 明治新政府の医学官僚として頭角をあらわし海軍医となった兼寛は、ある事件(脚気事件)で、己の信念となっている療法の採択を政府に懇願するのだが、その時、東京大学医学関係者は、兼寛を無知蒙昧の輩として徹底的に排撃した。東京大学に席をおく連中にとって他の派閥は全て無知集団に映るのだろう。結局兼寛は四面楚歌となり嘆き苦しむのだが、しかしただの人間ではなかった。ネバーギブアップの精神で超人的な働きをするのである。

 ここで僕は考えた。何故明治新政府は文明開花の手本をドイツにおいたのだろうかと、考えた。

 ・・ドイツは自分の国を日本の範とさせたかったので、日本からの留学生を快く受け入れた。日本からの留学生とは官費の留学生であり、彼らの生活はギリギリであった。そこでドイツ政府は日本政府には内緒で遊興費を彼らに与えた。あろうことか、身の回りまで世話をする女性をひとりつけた。勿論、「身の回り」にはいろんな意味があるのである。早い話、森鴎外の「舞姫」もそれに当たるのではないかという説がある。



 2013/09/08 (日) 一歩も外へ出なかった昨日
 
きょうの午前6時、僕は細呂木滝地区の雨請堂下にある池のほとりに佇んでいた。



明社の美化運動のためにここへ来たのだが、雨がひどくゴミ拾いどころではなくなり、雨に煙る池を眺めていたのである。

ところで
池の横には、「雨請堂」の説明文がある。「・・日照りが続いた時、村人は鐘太鼓を打ち鳴らし龍王(水の神)を怒らせた。そうすると、突然大雨が降って村人は喜んだ云々」と書いてあるけれども、僕が生前の坂本先生から聞いた話はちょっと違う。

「・・日照りが続いた時、雨請堂前の広場は、相撲場となった。そしてそこで行われる相撲は女相撲だった。乳房をあらわにした女性を見て喜んだ龍王は大雨をふらせた云々」

とすると龍王は男神ということになる。しかし山の神はあきらかに女神だ。翻って田の神は男神である。日本の神は一神教のゴッドとは違って、八百万の神々だ。人間と同じで、性別がある。


昨日の来訪者のひとりから、「まきちゃん、応接コーナーをもっと広くしようや。そうすれば今より沢山人が集まっての焼肉パーテイが可能になるし、ちょっとした講習会を開くこともできる」と言われて、僕は考えた。そして考えた結果、このように模様替えしました。

ラジオをつけたら、知らない間に東京五輪が決まったみたいで、バンザイバンザイのオンパレードだ。日本は既に’64年に五輪を開催しているし、五輪を世界平和に寄与させるというのであれば、イスラム圏の親日本国であるトルコ・イスタンブール決定の方がよかったのではないかと思うのだが、よく考えてみたら’64年の東京五輪をテレビで見ている日本国民は今や少数派なのであって、であれば狂喜の声があがるのも無理はない。

確かに、半世紀前の東京五輪はアジア初ということで、僕も手に汗握って応援した。
聖火台に点火する青年・坂井は広島被爆二世だった。陸上の花形競技・男子100mの覇者・ボブヘイズの走りっぷりは「黒い弾丸」そのものだった。もう一方の花形競技・男子マラソンを制したアベベは独走でゴールインし、ヒートリーや円谷が苦しそうな顔でゴールインするのを尻目に悠々とストレッチ体操をしていた。

柔道では、アントン・ヘーシンクが神永を破って日本中を落胆させたが、一ヶ月ほど前のテレビでそのヘーシンクが「でも僕が神永さんを破ったことで日本の柔道が世界の柔道になったのです」と語っていて、僕はなるほどなあと思った。
陸上で一番印象に残っているのは、スタート前に必ずトンボ返りをしていた女子80m障害の依田郁子。後年、彼女は首を吊って死んだ。


体操の妖精・チャフラフスカは可愛らしかったなあ。でもテレビの視聴率がMAXに達したのは、女子バレー決勝戦。相手はソ連、というよりも強烈スパイカー・ルイスカリだった。彼女の強烈なスパイクを日本チームは回転レシーブで拾って拾って拾いまくるのだった。僕はあの試合を「テレビで見るよりもラジオで聞く方が熱気が伝わってくるんじゃないか」と思って、途中からラシオに切り替えたのを覚えている。

ということであの頃の僕は、純真な少年だった。

2013/09/07 (土) 深夜に熱々珈琲を飲みながら

FAXが送られてきた


鯖江市が全国に公募した「さばえ近松文学賞」の応募総数556通のなかから、長谷川勲さんの「牡丹慕情」がベスト7に選ばれたのである。


長谷川さんをよく知っている者として我がことのように嬉しいし、彼の該博な知識を考えると、「近松賞」授与にならなかったことに対して不満すら感じるのであるが、それはともかくとして、あわら市に「作家の卵」が誕生したことを先ず持って喜びたい。


早速、地酒持ち寄っての「お祝い会という名の飲み会」を、模様替えで和調に生まれ変わった事務所応接ゾーンで開こうと思う。





コンテンツ「声の広場」に長谷川さんからの投書があったので、ここに掲載します。
461.残念さを今後に生かして・・・。 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2013/9/7(土) 16:17
 鯖江市が近松門左衛門生誕360年を記念して「近松のまちさばえ」を全国発信すべく「さばえ近松文学賞」と題して本年1月1日から6月30日までに恋にまつわる短編小説を全国から募集した。今回が第一回である。

 5月末にテレビでこの事を知り急きょ作品を仕上げた。私にとって最初の応募作品でもある。ストリーとその舞台は幾つか浮かんだが最終的には芦原温泉を舞台にして、この温泉地に流れてきた薄幸の芸者と彼女にほのかな憧れを抱く少年の悲話を鯖江市に絡ませて書き上げた。

 舞台は芦原温泉、主人公は芸者、これだけは拘った。8月に一次審査、9月6日に最終審査が行われた。結果応募数556作品があり、幸運にも上位7作品に選ばれたが、残念ながら佳作に終わった。

 近松賞は山梨県の徳山容子さん、優秀賞に福井県坂井市の中野さん、滋賀県の瀧本さん、群馬県の関さん、佳作に神奈川県の岡部さん、奈良県の小山さん、そして私である。

 入賞者7名のうち5名が県外者で、県内に大きくPRされたにもかからず福井市も主催した鯖江市からの入賞者はゼロであった。

 この結果をどう見るかは人さまざまであるが、少なくても福井県の文学的土壌が未成熟であることは間違いない。

 もう一つ、これは私の反省から述べるのだが、(わたしの作品が劣っていたことはもちろんだが)地域に拘り過ぎて作品が窮屈になった。これは県内応募者の多くに共通するのではなかろうか。

 文学賞を設けた場合、それが地方の小都市であろうとインターネットで全国に発信され多くの文学愛好家が応募してくる。たとえばあわら市で募集した場合、ライバルはあわら市民でも福井県民でもない。全国の愛好家である。

 そのことを念頭におけば取り上げる題材も当然異なってくる。地域限定の作品は通用しないのである。佳作に終わったことを反省し、今後は地域にも地域の歴史、文化に捉われず伸び伸びと作品を書き上げたい。いつの日かメジャーな文学賞を獲得することを夢見て・・・。

 さてこのことは地域振興に言えるのではないだろうか。地域の特長を過剰に意識し、地域の文化、歴史を強調するあまり大局を見誤ることはなかろうか。

 故郷の歴史文化を大切にすることに反対しているのではない。だが、それは自らの内部に留めて置くべきであり、それを観光資源と捉えると、往々にして訪れる人々を退屈にさせてしまう。

 大切なのは多くの人が興味を持ち、共感できる対象を創造することだ。つまりこちらの思い、価値観を押し付けるのではなく、圧倒的多数の興味、関心を捉え、それを地域づくりに取り入れることだと思う。行政にはそのことを念頭に町づくり、観光振興に取り組むことを期待したい。

 追伸、牧田さんさっそく残念会を開きましょう。



今朝の来訪者から、「手取川(白山市付近)の戦いでは上杉謙信率いる上杉方が勝利し、柴田勝家率いる織田方が敗北した。その後、上杉方は細呂木まで織田方を追撃したものの、初雪が降ったため、謙信が
『野伏する 鎧の袖も 楯の端も
     みるしろたへの けさの初雪』
という和歌を詠み、それ以上の追撃を断念した」という話を聴いた。


とすると440年程前に、謙信は細呂木に来ていたことになる。これは歴史のロマンだ。坂本豊先生はじめ山口先生、土屋先生、朝倉先生たちが御存命の頃だったら、すぐに細呂木周辺へ行き、「蔵の片隅に謙信直筆の和歌が残っていませんでしょうか」と民家を尋ね歩いたに違いない。


しかし今、そういう人は誰もいない。これを金津の危機と言わずして何と言おうぞ。


2013/09/06 (金) もう週末か


僕が日本に生まれてよかったと思う点がひとつあって、それは日本語がひらがなを使うことだ。


身近な友人・先輩諸氏は僕の体調を心配して、「まきちゃん、はやく元気になれよ」と言ってくださりそれはとてもありがたいのだけれども、脳内出血による後遺症はいかんともしがたい。


例えば
ノートへの手書きで漢字を書けなくなってきた。漢字を頭では覚えているものの、いざ書こうとしてあの複雑な漢字を思い浮かべるともう駄目だ。頭がグチャグチャになる。だから僕の手書きノートは殆どがひらがな文となっている。ひらがな文は記号のオンパレードなので読みにくいのだが、とにかく書きやすい。


人間がこの地上に現れた時、音声言葉はなかった。身振り言葉(手話)だけがコミュニケーションの手段だった。幾星霜で、誰かが海を見て、「ウミ」と発声した。連鎖的に音声言葉が生み出され、日本語が確立されていった。


またまた幾星霜で、日本人は物語を記録する必要にせまられた。しかし固有の書き言葉を持たなかったので、中国の漢字を借りて日本語の音(オン)にあてはめた。宮廷貴族達(暇人達)は、漢詩などをつくって遊んでいたのだが、藤原摂関政治の時代に入って、女流が活躍し始めた。


紫式部や和泉式部や赤染衛門達だ。彼女達は和語つまりひらがな語で「源氏物語」や「和泉式部日記」を書いて、宮廷文壇の寵児となった(僕は若い頃、「源氏物語」に挑んだことがあるが男女の機微を解さない人間だったので、さっぱりわからず、「平家物語」のような語り物が自分にはむいていると思った)。


僕は何を言いたかったのだろう・・うんそうだ。
ひらがなが全てだ。ひらがなだけが血肉となっている。


2013/09/05 (木) 本日はCAD三昧

伊集院静著「白秋」の主人公・真也は、明日をも知れぬ命の青年で、人生を日本美のなかで終焉させようとしている。真也を慕うふたりの女性・志津と文江は共に慎み深い和服女なのだが、三角関係が進行するに連れて心の奥底にある女の情念が顔をもたげてきて、嫉妬の火花を散らす。


まだ読み終えていないので、はっきりした読後感ではないけれども、「三角関係はやばいなあ」と思った。恋しい女性はひとりだけがいいと思った。



それはともかく、この小説を読んでいくなかで、「心を静謐に保つ為には、事務所応接ゾーンを和調にしなければならない」と思った僕は茣蓙を買ってきて敷き詰めた。





ほんのちょっとした模様替えで、気分はすごく変わる。凛とした気分になる。


季節はもう秋だ。客人たちを青磁の花器に入れた「秋の七草」で迎えよう。床からの灯りを行灯で迎えよう。陰影礼賛なのだ。


もう洋装は止めた、これからは和服にする。・・「新しい私」がみえてきた。

ところで
昨日に会った人は、太平洋戦争で父親を亡くしている。その人が「戦死といっても火器でやられるだけではなくて、戦地に赴くまでに輸送船を米軍に沈められたり、飢餓地獄で死んだり、熱帯の風土病にかかって死んだりとさまざまで、むしろその方がずっと多い。俺は戦後、同僚兵士の証言で、親父が米軍の火器によって身をこなごなに砕かれて死んだことを知った時、ほっとした。名誉の戦死でよかったなあと思ったよ」と言った時、複雑な気分になった。


軍人の使命が戦場での戦いにあることは勿論だし、それを名誉ある死として国が祀るのもわかる。けれども当事者が死の刹那に、それを名誉ある死として受け入れたかというと、到底そうは思えない。


何年前だったか、自衛隊の実射訓練の場に案内されたことがある、そのすさまじさに圧倒されたが、そこはあくまでも実射訓練の場、つまり攻撃するだけの場だった。戦場では、敵の砲弾が耳元をかすめて飛んでくるのだ。気がつくと友兵の頭の半分がふきとんでいたということが頻繁にあるのだ。


恐怖でパニックの世界となる。真善美がぐちゃぐちゃとなり一切の価値判断は消え失せ、茫然自失のなかで死んでいくのだ。


今、「戦争賛成」という人は、武器製造をなりわいとしていない限り、どこにもいないだろう。けれども局地戦は今も世界のあちこちで起こっている。何故そうなるのかは、現代史を勉強することで初めてその片鱗を知ることになると、私は思う。


私は軟派をやめた。硬派となった。言うところの転向だが、松平春嶽に講義をし続けた横井小楠も、「人の人生は変節する。変節することこそが人生だ」と言っている。


22013/09/04 (水) 夜明けに珈琲を飲みながら


昨日の午前中は、北前船船主群保存地区へ再び行き、保存運動をしてきた初老のひとS氏から、その経過を詳しく聞いた。


①藩政期から明治中期頃まで瀬戸内、日本海、北海道を舞台に活躍した「北前船」に関するさまざまな資料を展示公開している。資料館は明治9(1876)年、橋立の北前船主、酒谷長兵衛により建てられた建物である。
②昭和57に保存地区に指定されたが、それに至るまで、地域住民の熱心な努力があった。
③この運動に先鞭をつけたのは私の妻である。  エトセトラを聞いた。


①を聞いたとき、「加賀は歴史の奥が深い。越前とは全然ちがう。できるものなら引っ越したい」と思った。


②を聞いたとき、「つまり市民運動から始まらなければ、本物にはなり得ないんだろうな」と思った。


③を聞いたとき、「女は強い。だけど恐ろしい」と思った。


「私達は、単に歴史を保存せよと言っているのではないのです。大切なのは未来です。だけど歴史を検証せずしての未来志向はあり得ない。日本は、先の大戦での敗戦を敗戦と言わず終戦と言っている。’50年に始まった朝鮮戦争で日本は特需に沸いた。そこから日本はヘンな方向に向いてしまったと思えてならない」エトセトラを聞いたあと、岬へ出た。


一昨日の暴風雨の影響で、海はすごく荒れていた。



2013/09/02 (月) 旅の初日

旅の初日は、加賀市橋立にある北前船の里資料館(TL0761-75-1250 一般¥310-)。
僕は資料館へは入らなかった。資料館で整理整頓された「まとめ」を見てしまうと、実際に屋敷群跡を歩く時のみずみずしい感情が損なわれるような気がしたからだ。




ひとり資料館の外観を眺めていた時、妙齢の女性が僕に話しかけてきた。
年の頃は42、3か。利休ねずみの鼻緒の草履。浅黄色の地に濃紺模様の西陣そして白いうなじ。島田髪の和服女性の加賀言葉のなかにかすかに残る京都なまり


ぼくは屋敷群跡を歩いた。
このあたりは往時には、ざっと40件の北前船の船主の屋敷が並んでいた。それはそれは豪勢な屋敷群だったという。いまは屋敷群の外壁が傷み、瓦は割れ、軒は傾いている。そして群の全体を沢山の巨木が覆っている。石畳の道は薄暗く、空気はひんやりとしている、


朽ちつつあるものは素晴らしい。建築物だけではない。人間だってそうなんだ。腐りかけていく時、一番味が出る。


百敷や 古き軒端のしのぶにも 
             なほ余りある 昔なりけり   順徳院


なのである。


屋敷群保存地区をとり囲むようにして地区の住宅街が拡がる。その間に境界の印しは無かった。地区住民が恐らくは手弁当で保存維持にあたっている。
地味でおもしろくもなんともない日常的な作業だと思う。しかしそういう結いの思想が日本を日本たらしめてきたはずだ。すくなくとも昭和の時代にはそのようなエリアが全国あちこちにあった。平成の時代に入り、昭和時代のしぶみのある輝きは急速になくなりつつある。人間社会は村から出発した。村(ムラ)の語源は群れ(ムレ)である。


人間はひとりで生活することはできない。わずかの人数が寄せ集まってつまり群れをつくり共同体としての生活を始めた。その共同体には、愛憎ないまぜの濃密な人間関係が封印されたなかで跋扈していた。


前近代から近代に入って、我々の社会は都市化を目指した。村が表面的には村のままであるにしても、交通手段の革命で職寝分離が進み、通信手段の革命で個人の趣味の選択肢が級数的に増えた。その結果が今日(こんにち)の社会であると言える。

2013/09/02 (月) 不眠が続く


ようやく秋がきた、大変に暑い夏だったが、その期間を冷房の効かない車でのりきったのは、素晴らしいことだと思う。正確には「のりきった」ではなく「のりきらざるを得なかった」なのだけれども、それは小異であり、今は自分で自分を誉めてあげたい。




それはともかく
きのうは終日布団に潜り込んで本を読んでいたが、なんにもすることがない時の読書は、貧乏人的暇つぶしとしては最高だ。


よくもまあこれだけ沢山の人が沢山の喜怒哀楽を活字にしているものだと思うし、もし僕が、これからの人生の就寝以外の時間の全てを読書に充てるとしても、この世で読める本は氷山の一角でしかないことはわかるのだけれども、自己嫌悪と対人恐怖が進行しているので、活字のなかの主人公に同化したりすることで脳を刺激するしか能がなくなってきた。


ストーリーが頂上にさしかかる頃、ワイン片手にオープンカフェへ出る。高揚した感情を反芻しながら空の青さを見つめていると、「このまま死んでもいいなあ」と、時折思うのだけれども、それはあくまでも一瞬だ。


寺山修司もこんなことを書いている。


書物のなかに海がある
心はいつも航海をゆるされる


書物のなかに草原がある
心はいつも旅情を確かめる


書物のなかに町がある
心はいつも出会いを持っている


人生はしばしば
書物の外ですばらしいひびきをたてて
くずれるだろう


だがもう一度
やり直すために
書物の中の家路を帰る


書物は
家なき子の旅


2013/09/01 (日) 雨の日曜日


早朝に旅支度を整えて外へ出たら、雨が降っている。今回のトウデイ一人旅の目的は「加賀の名建築を訪ねて」だったので中止を決めた。雨が嫌いだからというわけではない。対人恐怖症の進行する私にとって雨はいわゆるひとつの癒やしなのだけれども、雨中では加賀橋立伝統的建造物群や江沼神社長流亭の撮影に差し障りがでてくる。キャノン一眼レフに対して申し訳ない。


なんせ「気の向くままの即決即断」が私のモットーだ。本日は日曜日だ。白ワイン片手にDVD3巻を楽しもうか。ウイスキー片手に横になって小説世界に浸ろうか。それとも真面目な顔してCAD画面に向き合っていようか。


ところで、私の手元には六つの眼鏡が置いてあり、作業毎に種類を取り替える。中の一つが眼鏡屋でつくった高級品。最近すぐにレンズが外れるので眼鏡屋へ修理に行ったら「もう駄目ですね。枠が修復不可能なほどに歪んでいます」が答えだった。


後日、私はDIY店に行き、アロンアルファを購入。レンズと枠の隙間をそれで塗り固めたら、全く外れなくなった。


要らないものはどんどん捨てて、要るものはメンテ方法を考えながら寿命いっぱい使っていく。これが日本経済の再生につながるのではないだろうか。


ということで
午前中は、DVD「明日への遺言」を観ていた。大岡昇平原作のこの映画は太平洋戦争末期、名古屋大空襲の際、数万の無辜の民を火あぶり地獄で殺戮した米軍パイロットに対して、軍律略式裁判で絞首刑を命じた東海軍司令官・岡田資(藤田まこと)の苦悩を描いた映画である。


戦後のBC級裁判で、「米軍による無差別空襲は明らかに戦争法に抵触する」と叫ぶ。さらに「ヒロシマナガサキへの原爆投下による地獄図を無差別攻撃として米軍を糾弾する。裁判の過程で、米軍パイロット斬首の実行者である部下達には罪がなく、全ては自分ひとりの責任であると主張し、従容として絞首台の露と消えていく。


当時の戦争指導者の中にもこういう気骨人が沢山居たんだろうと思う。