2014年04月

2014/04/30 (水) 昨日の一日

 昨日の午前6時半。ぼくは後山にある某あわら市議宅の屋敷にいた。屋敷内のモミジの樹に一目ぼれしたぼくは、「これ欲しいなあ、今度、スコップ持って掘り出しに来ます」と言って屋敷を後にした。

 事務所に戻り一服していたところへとんぼさんが坪江村誌を携えて来訪。「畝畦千坊のことをいろいろ調べてきた」と言う。「文筆家のフットワークはさすが早いもんだ」と、ぼくは感心した。

 上の歯がなくなったぼくは、仕方なく塩昆布を混ぜてのおにぎりをつくって昼飯を終了。

   そのあと
今、利休に凝って美意識が鋭敏になっているぼくは、近くのDIYショップにでかけ大枚¥1200エンをはたいて、カバー付き洋服収納を購入した。


 「これで応接コーナーは侘び寂びの利休世界に又一段と近づいた」と思っていたところへ携帯コールが入った。
「牧田さん、今から行っていい?」と言う彼女に、ぼくは「もちろんウエルカム」と答えた。

 夜は5人が集まっての会議。皆が帰ったあとはウイスキイー・レッドをコップ二杯飲んで就寝。

「利休にたずねよ」から(2)
あめや長次郎
利休切腹の六年前
天正十三年(1585)十一月某日
京 堀川一条

京の堀川は、細い流れである。
一条通に、ちいさな橋がかかっている。
王朝のころ、文章博士の葬列が、この橋をわたったとき、雷鳴とともに博士が生き返った・・。
そんな伝説から、橋は戻り橋とよばれている。冥界からこの世にもどってくる橋である。
その橋の東に、あめや長次郎は瓦を焼く釜場をひらいた。
「関白殿下が、新しく御殿を築かれる。ここで瓦を焼くがよい」
京奉行の前田玄以に命じられて、土地をもらったのである。
聚楽第と名付けられた御殿は、広大なうえ、とてつもなく豪華絢爛で、まわりには家来たちの屋敷が建ちならぶらしい。
すでに大勢の瓦師が集められているが、長次郎が焼くのは、屋根に飾る魔よけの飾り瓦である。
長次郎が鏝とヘラをにぎるとただの土くれが、たちまち命をもらった獅子となり、天に咆哮する。
虎のからだに龍の腹をした鬼龍子が、背をそびやかして悪鬼邪神をにらみつける。
「上様は玉の虎と、金の龍をご所望だ。お気に召せば、大枚のご褒美がいただけるぞ」
僧形の前田玄以が請けあった。
「かしこまった」
すぐに準備にかかった。
まずは、住む家を新しく建てさせ、弟子たちと移った。
そこに大きな窯を築いて、よい土を集めた。
池を掘り、足で土をこねる。
乾かし、釉薬をかけて焼く。
今日は、焼き上がった瓦の窯出しである。
「こんなもんや。ええできやないか」
弟子が窯から取りだしたばかりの赤い獅子のできばえに、長次郎は大いに満足した。
獅子は、太い尻尾を高々とかかげ、鬣を逆立てて牙を剥き、大きな目で、前方をにらみつけている。
長次郎が、あめやの屋号をつかって、夕焼けのごとき赤でも、玉のごとき碧でも、自在に色を
つけられるからである。
明国からわたってきた父が、その調合法を知っていた。
しかし、父は、長次郎に製法を教えなかった。なんども失敗をくり返し、長次郎はじぶんで新しい釉薬をつくりあげた。
なんども失敗を繰り返し、長次郎はじぶんで新しい釉薬をつくりあげた。
長次郎の子も、窯場ではたらいているが、釉薬の調合法を教えるつもりはない。
・・一子相伝にあぐらをかいたら、人間甘えたになる。家はそこでおしまいや。
父祖伝来の秘伝に安住していては、人間は成長しない。代々の一人ひとりが、創業のきびしさを知るべきである・・。それが父の教えだった。
まだぬくもりの残る窯のなかから、弟子たちがつぎつぎと飾り瓦を運び出してくる。
いずれも高さ一尺ばかり。
できばえは文句なしにみごとである。
龍のつかむところに雲があり、虎のにらむところに魔物がいるようだ。
得意な獅子も焼いた。
造形もうまくいったが、赤い釉薬がことのほかいい。
冬ながら、空は晴れて明るい陽射しが満ちている。
その光を浴びて、獅子にかかった釉薬が銀色に反射した。
「いい色だ」
長次郎の背中で、太い声がひびいた。
ふり返ると、大柄な老人がのぞき込んでいた。
宗匠頭巾をかぶり、ゆったりした道服を着ている。真面目そうな顔の供をつれているところを見れば、怪しい者ではないらしい。
「なんや、あんた」
釜場には、まだ塀も柵もない。こんな見知らぬ人間が、かってに入ってくるようなら、すぐに塀で囲ったほうがいいと、長次郎はおもった。
「ああご挨拶があとになってしまいました。わたしは千宗易という茶の湯の数寄者。長次郎殿の飾り瓦を見ましてな。頼みがあってやってまいりました」
ていねいな物腰で、頭をさげている。
長次郎は、宗易の名を聞いたことがある。関白秀吉につかえる茶頭で、このあいだ内裏に上がって、利休という勅号を賜ったと評判の男だ。
「飾り瓦のことやったら、まずは、関白殿下がさきや。あんたも聚楽第に屋敷を建てるんやろうが、ほかにも大勢注文がある。順番を待ってもらわんとあかん」
権勢を笠に着てごり押しするような男なら追い返そうと思ったが、老人は腰が低い。
「いや、瓦のことではない。茶碗を焼いてもらおうと思ってたずねてきたのです」
長次郎はすぐに首をふった。
「いや、あなたに頼みたいと思ってやってきた。話を聞いてもらえませんか」
話は穏やかだが、宗易という老人は、粘りのつよい話し方をした。
・・人間そのものは粘っこいのや。
長次郎はそう感じながらも、宗易のたたずまいに惹かれた。
・・この爺さん、なんや得体が知れん。
ただそこに立っているだけなのに、釜場の空気がひき締まるような、不思議な重みがある。
・・よほどの数寄者にちがいない。
長次郎の直観が、そうささやいている。
「窯出しが終わったら、お話をうかがいましょ。それで、よろしいか」
「けっこうです。おや、あの虎は、とくにできがいい。天にむかって吠えている」
いま弟子が窯から出してきたばかりの虎は、ずらっとならんでいるなかでも、いちばんよいできである。
長次郎は、宗易の目利きのするどさに驚いた。

2014/04/29 (火) 利休にたずねよ
  
山本兼一著「利休にたずねよ」から


・・山上宗二に秀吉が問う。
 「おまえが茶の湯者というなら、身ひとつでここにまいっても、なにか道具を持って来たであろうな」
 「むろんにございます」
 宗二は懐から、仕覆を取り出してひろげた。なかは、端の反った井戸茶碗である。すこし赤みがかかった黄土色が、侘びていながら艶やかな印象をかもしている。
 秀吉が、その茶碗を手に取って眺めた。黙って見つめている。
 やがて、薄いくちびるを開いた。
 「つまらぬ茶碗じゃな」
 
 乱暴に置いたので、茶碗が畳を転がった。
 「なにをなさいます」
 宗二はあわてて手をのばし、茶碗をつかんだ。
 「さような下卑た茶碗、わしは好かぬ。そうだ。割ってから金で接がせよう。おもしろい茶碗になるぞ」
 「くだらん」
 宗二が吐きすてるようにいった。
 「こらッ」
 利休は大声で宗二を叱った。
 「こともあろうに、関白殿下に向かって、なんというご無礼。さがれ、とっととさがれ」
 立ち上がった利休が、宗二の襟首をつかんだ。そのまま茶道口に引きずった。
 「待て」
 冷やかにひびいたのは、秀吉の声だ。
 「下がることは相成らん。庭に引きずり出せ。おい、こいつを庭に連れ出して、耳と鼻を削げ」
 秀吉の大声が響きわたると、たちまち武者たちがあらわれて、宗二を庭に引きずり降ろした。
 「お許しください。お許しください。どうか、お許しください」
 平伏したのは、利休であった。
 「お師匠さま。いかに天下人といえど、わが茶の好みを愚弄されて、謝る必要はありますまい。この宗二、そこまで人に阿らぬ。やるならやれ。みごとに散って見せよう」
 立ち上がると、すぐに取り押さえられた。秀吉の命令そのままに、耳を削がれ、鼻を削がれた。血にまみれた宗二は、呻きもせず、秀吉をにらみつけていた。痛みなど感じなかった。怒りと口惜しさがないまぜになって滾っている。
 「お許しください。憐れな命ひとつ、お慈悲にてお許しください」
 利休が、地に頭をすりつけて秀吉に懇願した。
 宗二は意地でも謝るつもりはない。秀吉としばらくにらみ合った。
 「首を刎ねよ」
 秀吉がつぶやくと、宗二の頭上で白刃がひるがえった。・・ 

2014/04/28 (月) 昨日の一日
  
 昨日の午前中は、トンボさん夫妻と一緒に、畝畦寺を目指した。
 急な石段(90段)を登り切ったところが観音堂で、広い境内は杉木立に囲まれ鬱蒼としている。木立を抜けてくる木漏れ陽がつくる明暗の対比がとても鮮やかで、ぼくの心を癒してくれた。



 午後は、明社運動福井県連絡協議会定期総会に出席するために武生商工会議所へ。
 H25年度事業報告並びに収支決算報告、H26年度事業計画並びに収支予算(案)などが議案の議事終了後は、基調講演。
 講演者は、福井病院(敦賀市)呼吸器外科部長・加藤泰央氏で、テーマは「癌ケアと終活」。


 すこぶる面白かった。
 シュウカツが「就活」ではなくて「終活」であるところがみそだ。勿論、「終」は「命の終い」を意味しており、死に際をどう生きるかについての話だった。7年前の脳内出血で幽体離脱の臨死を体験し「生死一体」的観念が頭から決して離れないぼくにとって、タイムリーな内容の講演だった。
 氏は、「エンデイングノートをつけましょう」と言う。「配偶者への、子供たちへの、家族への、愛人へのエンデイングノートをつけましょう」と言う。生前にエンデイングノートをつけることで身近な人たちへの日頃の自分の無意識が意識化されその延長線上に「安心立命」がみえてくるということなのだろう。
 聞き終わっての感想は、「おぬし やるな」だった。

 2014/04/27 (日)  昨日の一日
  
 ぼくはこの日本が特別に好きなわけでもないし嫌いなわけでもない。第一、海外渡航経験のほとんどないぼくに、日本が他の国とどう違うのかがわからない。急速なグローバリ化でマスコミ主導の海外情報は新聞・テレビにいろいろ入ってくるが、それは表面的なものであり、「行って見るのと聞くのでは大違い」が真相であるはずだ。

 その意味で愛国主義者にはなれないぼくだが、不思議なことに、オリンピックや大相撲や米MLBを観る時、無条件に日本人選手を応援してしまう。勿論、我々がふつう言う日本人が①日本国籍を取得している人を言うのか②渡来人による政権交代以前の血筋による日本人を言うのか③そんなことに拘泥することのないごちゃまぜ雑種的日本人を言うのか、厳密にはその定義が必要なのだろうが、これを考えると、ボケ化しているぼくの頭がますますかたまってしまうので、「どうでもいい」を結論とする。

 そして昨日午前8時に始まったMLB試合テレビ観戦に臨んだ。ヤンキースvsエンゼルスに先発した黒田がバカスカ打たれている。コーナーワークはまあまあでも、スプリットがうまく落ちないのである。序盤で5点を奪われた。あんなひどい黒田を見るのは初めてだ。ヤンキース・ジラルデイ監督になったような気分で「くそ!」と地団太を踏んでいたところへ、文化財保護委員某氏が現れた。
 「畝畦観音の保存と市文化財指定について」(高戸甚右ェ門記)を持ってやってきた。

 
「1 補陀洛山、畝畦寺
縁起
 あわら市宇根にある畝畦寺縁起によれば、天皇四十二代文武天皇の御代に畝畦の山中(観音川の源流)小池の面上より一老翁現れ頭上に一尺余の十一面観音を戴き、龍宮より来たと云う。老翁尊像を西の方に安置して久しく念持するも誰も気付かなかった。
 たまたま泰澄は当山に紫雲たなびき霊気あるを怪しみはるばる訪れ老翁の神人なるを知り、霊像のため一字を建立し尚当山鎮護のため自尊像を彫刻して大社を勧請された。
 爾来、霊験崇かで信者は増え隆盛を極めたが、その後発生した一向一揆の乱で寺は破却され、衰退の一途をたどり畝畦千坊の名のみ残った。
 ご本尊は秘仏とし、三十三年毎に御開扉することになった(現在は十七年)。なお尊像は雨乞の霊験あらたかで五穀豊穣、国土安穏なりと言われている。・・・」で始まり

「(1)泰澄の生涯
越の大徳と尊称された泰澄は、縁起によれば
682年、麻生津村三十八社で誕生(現福井市)
695年、夢の告があり、越智山に登る
702年(大宝二)、越智山に草庵を結ぶ
           臥の行者が弟子となる。文武天皇より鎮護国家法師号を賜れる。
712年(和銅五)、丸岡豊原寺を創造
716年(霊亀二)、白山平泉寺を創造
           臥の行者を伴って白山に登る。竹田吉谷寺を創造
717年(養老元)、上打波 鳩ケ湯を発見
           石川県那谷寺を創造
718年(養老二)、粟津温泉を発見。北潟安楽寺を創造。日野山を開く。
725年(神亀二)、行基白山に泰澄を尋ね、本地垂迹説について語り合う。
           (行基は山中温泉を発見)
737年(天平九)、聖武天皇より大和尚号を賜る。
758年(天平宝宇二)、大谷寺に帰る。
767年(伸護景雲一)、大谷寺にて遷化される。86才。」と続いていく。

 2014/04/26 (土) もう週末か
  
 例によって深夜に目が覚めもそもそと起き上がりテレビをつけると画面は週刊プレイボーイ全盛期を特集している。開高健が若者相談コーナー・「風に訊け」を書いていた時代で、往時、売上は100万部を超えたのだから大したもんだ。ぼくが30歳前後の頃だったと思う。「風に訊け」が自分の人生の指針として役に立ったとは全く思わないが、圧倒的に面白かった。
面白いものは、役に立つとか立たないとかの小さな範疇におさまらないのである。
 開高をこのコーナーに引っ張ったのが、当時の週刊プレイボーイ編集長で「人たらし」と呼ばれた島地勝彦。二人の交流は開高が59歳で亡くなるまで続く。

 当時のプレイボーイは硬派も軟派も引き込んだ。即ち、美しい女性ヌード満載だったのである。ヌードは今のようなヘアヌードとなっては興味をそそらない。一番見たいところが見えないことが肝要で、「秘すれば花(世阿弥)」なのである。
 何故だかわからないが生まれてから一度も女にもてたことのないぼくは、この週刊誌によってカッコ付きの勇気を大いに与えられたものだ。

 4年半にわたってこのコーナーを受け持った開高はやがて純文学の世界に戻っていき、59歳で死ぬ。
 この作家の筆に大きな影響を与えているのは、1964年に朝日新聞社臨時特派員としてベトナム戦争の最前線に出た時の体験だろう。米軍チーム200人とジャングルを同行して歩いていた時、反政府ゲリラの猛攻撃に会い、かろうじて生き残った(生存者17人)。この時の体験が「闇・三部作」へ影響を与えた。

 確か「輝ける闇」だったと思うが、そのあとがきは次のような文章を含んでいる。
 「・・私はたたかわない。殺さない。助けない。耕さない。運ばない。煽動しない。策略を立てない。誰の味方もしない。ただ見るだけだ。わなわなふるえ、眼を輝かせ、犬のように死ぬ。見ることはその物になることだ・・」

 2014/04/25 (金) GW
  
 ・テレビをつけると「いよいよゴールデンウイーク(GW)!」のオンパレードで、歯を抜いてそれどころではないぼくには不思議な感じがする。テレビは「どこの行楽地も人手でいっぱい」と国民全部が出かけるみたいに予想しているが、行楽派も日本国民全体に占める割合はきっと少ないはずだ。早い話、友人知人と話をしてると、「田んぼでそれどころではない」or「雑魚寝して酒飲んでる方がいい」or「仕事に追いかけられている」と言う意見が殆んどなのだ。
 
柳田国男が「都市は物資の集散地で、そこは高等遊民の世界である」と何かの本に書いていたが、してみると、GWは都市住民のもので、TVの発信源も東京ばかりだからその声が異常なほどに増幅されるのだと思う。

 ・三日間歯を抜き続けてきて、ようやく抜歯終了。これで入れ歯人間への道はセカンドステージへと入ります。みなさん、歯はお大事に。

 2014/04/24 (木) ついに抜歯
  
 ・「美しさなどというものは、あくまでも見る側に属する事柄であって、見られる側の問題ではないのである」・・これは井上ひさしのエッセイに出てきた言葉だが、「利休にたずねよ」を読んでいて、この言葉が何度も頭の中を巡った。

 誰にも追従せず太閤・豊臣秀吉を「美に関しては無知蒙昧の男」と蔑み、結局切腹を命じられてこの世を去った千利休。そのことで美に殉じた人として後世に名を残すことになるのだが、山本兼一は庵に招く利休と招かれる諸大名との間の心に湧き上がる葛藤を、庵の小窓に差し込む月明かり、天下に聞こえた茶器あるいは湯の沸きあがる音などを背景にして書いている。小説というよりむしろ架空的心理分析書に思えて、それなりに面白いけれども重ぐるしい気分が残った。

 2014/04/23 (水) 深夜に熱々珈琲を飲みながら
 

・韓国船舶の事故事故での乗組員の対応の異常さが明るみに出るに連れ、我々は「あいた口がふさがらない」の思いにかられる。しかし韓国大統領が「船長の対応は殺人と同じ」と発言したのにも驚いた。仮にも一国の大統領が公式な場でそういう発言をするならば司法の独立性が侵されていることになる。
 第一、船内に閉じ込められている高校生たちの親が待機している場所にやってきた政府高官が即席ラーメンを食べたり記念撮影をしようとしたりのこれも唖然とする振舞に及んでいるのだから、何が何だかわからない。

・今日明日明後日の三日間、「議会報告会」が開かれる(お知らせ参照)。
しかしこの報告会に関しての不平をよく聞く。「前回行ったけれど、議会だよりに載っていたことのしゃべりでしかない。行くだけ無駄や。決まってしまったこと聞いても仕方ない。決まっていないことで焦点になってる事案について、個々の議員がどう考えているのかを言うてくれるんなら行く気するけど、そうでないんなら行かない」・・異口同音にこのような思いを何人かの市民から聞いた。

 2014/04/22 (火) 利休にたずねよ
 
 山本兼一著「利休にたずねよ」を読み始めて、おやっと思うようなところがいくつかあった。
 

 たとえば有名な逸話だが
 「ある年の晩秋、知人から利休庵を訪ねるという知らせを受けた利休は、利休庵に通じる露地に被さる落ち葉をほうきで掃き清めた。そのあと、露地脇の樹木の幹を震わせ数枚の落ち葉で露地に彩りを与えた。利休の美意識がそうさせたのである」と書いてあったが、この行為についてのぼくの理解は全く違う。

 「利休は来客が気持ちよく露地を通れるように落ち葉を掃き清めた。そのあと、まてよと考えた。「来客は、私のために掃き清めてくださったのか・・申し訳ないなあ、と恐縮しなさるのではないか。そんなくらいだったら元のままにしておこう。そうすりゃ相手はリラックス気分で来てくださる」と思ったのである。

 わたくしごとだが、おまき庵での来訪客応対に関しては、一切気にしない。

14/04/21 (月) 歯
 
 一昨日にS歯科へ行った時、「まきちゃん、上歯はいよいよ総入れ歯にしなければなりません、しばらくはフガフガとしかしゃべれないでしょう」と言われたので、「ちょっと待ってほしい。明日の晩、婦人会の女性たちの前でしゃべる必要があるので、抜歯を数日延期していただきたい」と答え、婦人会相手のしゃべりに臨んだ。

 ぼくは若妻が多いのだろうと思いドキドキして行ったのだがそれは予断と偏見で、実際には年寄り乃至は元女性が殆んどで、「こんなんなら昨日抜歯しときゃよかった」と少しばかり後悔した。だけどよく考えるとそれは自分のことを棚に上げた不遜な思いであった。皮膚はたるみ視界は狭まり左肩は動かなくなり右足の筋力は脆弱になり、見た目にも往年の面影は既になくなっている。

 神様は、時間の経過による心身機能の低下を、誰彼の差別なく我々に与えてくださっているのだと思う。

ということはともかく



 ぼくが事務所の隣の部屋で20分間ほどの夕食を終え事務所に戻ったら、ワイン、ウイスキー、焼酎の三本の瓶がテーブルの上に置かれている。
 「はて、どのおなごが持ってきてくれたのだろうか?」と、ぼくは途方に暮れてしまった。こういう時の困惑をみなさんに正確に伝えることができないのが残念です。

14/04/19 (土)  無題
 
  昨日のぼくはハーモニカのことばかり考えていた。

「・・・小沢さんはスポットライトが当たるとライトを避ける人でした。芝居でも研究でもハーモニカでも注目されると逃げる。芝居もお客の少ない方がいいって言うんですよ。新宿の紀伊国屋ホールを借りて、お客を入れないで一人で芝居をやったっていう伝説があるくらい。
このごろ誰かが亡くなると、テレビは寄ってたかってその人を名人上手にして<天国にはお仲間がたくさん待ってらっしゃいます>なんて言いますね。でも僕は小沢さんはそういう中に入ってほしくない。小沢さんは天国には行かないの。似合わない。小沢さんは草葉の陰にいるんです。ちょっと草をどけるとそこにいるんで」。  これは、永六輔の故小沢昭一へのラブレターだ。
 

 昔ラジオで小沢が「小沢昭一的こころ」をしゃべっていたころハーモニカに対する偏愛に触れていた記憶がある。小沢昭一が亡くなったことによって、昭和の残影が消えたと思っていたが、ハーモニカも又昭和の代名詞のひとつだろう。


 それはともかく
 最近のぼくは小魚ウオッチングに興味がある。一昨日も小川に入って、小魚・海老・蟹を捕獲。バケツに入れて市姫荘へ持って行った。この施設のロビーの水槽には金魚が一匹入っているだけ。それでは金魚がさびしいだろう、友達がほしいだろうと思って持って行った.。要するに社協へ寄付したわけだが、みんな元気に泳いでいるのだろうか。

14/04/18 (金) ハーモニカ

 本日の午前中は、生涯学習館三階の大ホールへ行く予定。、
 来月(5月)31日に、ハーモニカ演奏をしてくださる川端さんに演奏予定会場で会って、諸々を打ち合わせるためです。

 今の小学生が音楽の授業で使う楽器はピアニカですが、昭和20年、30年代の小学生が使っていたのは、ハーモニカでした。よって、中高年にとっては昔の哀愁を思い出させるコンサートになるだろうし、若い人たちにとっては新しい楽器発見のコンサートとなるでしょう。当日は、是非ともご来場ください。

14/04/17 (木) 昨日の一日

 仕事の相手が名古屋出張中ということで打ち合わせができず、仕方なく昨日を休暇日とした。
 午後は金津町役場OB・Y氏宅を訪問。芝生をはりめぐらしたオープンカフェで、郷土の歴史エトセトラに関する会話を楽しんでいた。敷地のなかに芝生をはりめぐらすほどのスペアスペースがあるというのはシアワセなことで、セミリタイア生活が豊かなものとなる。

 Y氏宅を辞してから生涯学習館二階へ行った。誰も来ないと噂されている「郷土歴史コーナー」である。一昨日、昨日と連チャンで行ったのだが、確かに誰も居なかった。活気を与えるためには、一階の図書館部分との有機的な繋がりを計画段階で考えるべきではなかったかと瞬間的に思ったが、それも含めて行政にはこれからの施策を考えていってほしい。

 ということはともかく、ひとりでフロアを借り切った気分になり、展示物のいろいろを時間をかけてじっくりと眺めていた。歴史的な展示物ほど私の耳元に何かをささやきかけてくるような気分になる。坂崎乙朗が言ったように、「モノは言葉を発する」のである。







 重文展示室に入った時、私は読売新聞平成9年全国版を思い出していた。

「6000年前の耳飾り 中国製に酷似」の見出し記事は、縄文時代に中国浙江省と日本列島日本海側との間に海流を利用しての交易があったことを暗示している。もちろんその航海で、現代でも昨日起こった韓国の事故のような海難事故は多発したのだろうが、人間の性(さが)として、命を賭して大海洋を越えてパラダイスを求めていったである。その結果としてアフリカ峡谷に発生した人類=黒人が、コーカソイドやオーストラリアロイドを分派として発生させ、蒙古斑点を尻に持つ我々の祖先・モンゴロイドはマンモスを追いかけて北上し、(当時地続きであった)ベーリング海峡を渡ってアラスカ大陸に上陸した。その後8000年を経て、現在では南米大陸最南端のチリにモンゴロイドが住んでいる。
 そう考えると歴史はロマンで、個人の一生など永遠のなかの一瞬でしかないのだろう。

14/04/16 (水) 無題
 
 15年ほど前に、山十楽の裏路地で目にしたハサ収納。

 

 今もこうなのかどうかはしらないが「昭和の典型的な風景」で、高度経済成長以前を思い出させる。私は金津五大風景のうちのひとつだと秘かに思っている。

14/04/15 (火) 暗きより
 
 
暗きより 暗き道にぞ入りぬべき
       遥かに照らせ 山の端の月  和泉式部

 娘・小式部内侍を失った時、途方に暮れて歌ったのがこの歌だ。
「暗い山道を歩いていると、ますます暗いところに分け入っていってしまう。あの山の端のお月様、お願いですからもっと強いあかりとなって、私が歩いているこのあたりを遍く照らしてください。そうしてくださるならば、私が進むべき道筋がわかります」くらいが歌の意だろうが、もちろん、「どうして生きていったらいいのか」という虚脱感を底においている。

 じっと眺めているとますます気が滅入ってくるし、ここ数日は来訪者以外の誰とも話さなかった。しかし数日そうしていると、気の滅入りの行く先に、少しあかりが見えてきた。なんというか、自分が生まれ変わっていくような感じ。

ということで、久しぶりに外へ出て、えち鉄線路脇に咲いている菜の花を撮ってきた。


50年ほど前のこの季節、小学生時代の私は学校から帰ってくると我が家の畑へ出かけ、菜種をむしろの上で天日干しする祖母さんの手伝いをしていたような気がする。

14/04/14 (月) 昨日の日曜日
 
昨日は午前中8時半に「坂ノ下地域環境保全会定期総会」が開かれた。

 
提出議案は4件
第1号議案  平成25年度活動報告
共同活動報告
向上活動報告 
第2号議案  平成25年度決算報告
共同活動報告
向上活動報告
監査報告 
第3号議案  平成2年度活動6計画
共同活動計画
向上活動計画 
第4号議案  新役員選出
について活発に論議され10時に終了。

 11時からは、八幡神社境内にて桜・花見の宴が始まった。


 風が吹くたび、熱燗清酒の入ったコップに花びらが舞い落ちてくる。もう散り桜となりつつあるのだ。
 誰だったかが
   世の中に 絶へて桜のなかりせば 
            いかにこの世は 楽しからまし
と詠んでいる。
 桜が嫌いだからこう詠んだのではなくて、好きでたまらないから詠んだ歌だ。
 桜はほんの一週間ほどで散ってしまう。散り際つまり別れ際に向かうのがつらくってたまらない。いっそのこと桜がこの世になかったならば、この悲しみを味わわなくってすむのになあ・・という感じだろう。

14/04/13 (日) 夜明けに小鳥のさえずりを聞きながら
 
 趣味というものを持たない私にとっての唯一の趣味はプロ野球テレビ観戦。
 阪神タイガースのファンだから阪神が勝った次の日は気分がいいし、アンチ巨人だから巨人が負けた次の日も又気分がいい。
 となると、能見で巨人を破った翌日である今日は最高に気分がいいし、結果的に巨人vs阪神の今回のカードが阪神三連勝となったことは最最高の気分だ。シーズンがまだ始まったばかりなのでなんとも言えないが、阪神一位、巨人六位でシーズンが終わったならば、これに勝るヨロコビはないだろう。

 取りあえず昨日の阪神勝利によるヨロコビ気分で、本日の坂ノ下区八幡会花見の宴に出かけ、美酒を味わってまいります。

2014年4月12日 土曜日 「男たちの大和」読了
 
 「男たちの大和」の中で印象に残ったシーンのひとつが106~109ページ。

 「・・神尾は戦争によって母と兄を失い、そして妙子を失った。生きるよりどころをすべて失ってしまった。
 戦争は終わり、やがて除隊になった。広島湾のはずれの漁港の自宅に帰っても、何をしてよいのかわからなかった。自宅にこもったまま、二日も三日も食事をとらず、悲痛な喪失感にさいなまされ、うずくまっていることもあった。
 神尾が戦争から持ち帰ったのは一本の短剣だった。大和が沈む前に、「おれの命だ!」とポケットにねじ入れられた内田の形見の短剣である。
 神尾は時折、それを取り出し、鞘から抜き出して刀身を見つめた。これで自分の命を絶つことができる。その思いが高じてくると必ず、「お前は生きろ!」と叫んだ森脇と内田の声が耳元によみがえってくるのだ。

 だが、神尾には生きる気力がなかなかわいてこなかった。自分にどうしても果たさなければならない務めが一つあることはわかっていた。西の最後を見届けたのは自分だ。その最後を西の母に報告に行かなければならない。
 神尾はしばしば夢にうなされるようになった。死んでなお苦痛にゆがんだ西の顔が海面にガバッと浮き上がって、布団の上にはね起きることもあった。
 

神尾が意を決して、岡山県山間の棚田の村を訪ねたのは、すでにその年の冬をむかえたころであった。 村の人々はそれぞれが田んぼに出て、根切りの作業にいそしんでいた。山間の冬の日は早く沈む。まだ午後四時になっていないのに、落日が訪れようとしていた。
 神尾は棚田のあぜをしばらくのぼってから、田んぼで作業をしている農夫に、西サヨさんはどちらの田んぼでしょうか、ときいた。その農夫は作業の手を休めて腰をのばし、神尾の顔をじろっとにらんでから、右手上方の棚田を指さした。

 そこには黙々と稲株を切り起こしている小柄な女の姿があった。神尾は足をとめて、しばらくその姿に見入っていた。どう切り出せばよいのだろうとためらう気持ちがわいたが、思い切ってあぜをのぼってゆき、姉さん被りの後ろ姿に声をかけた。
「あの・・・西哲也君のお母さんですか?」
サヨは腰をまげたまま、顔だけを神尾に向けた。何も答えないその顔に向かって神尾は言った。

 「自分は、西哲也君と同じ大和に乗っとりました」
 ここではじめてサヨは腰をのばし、神尾の方へゆっくり向き合った。だが、神尾を見つめるだけで、言葉は発せられない。
 「西君は大和と一緒に・・・」
 ふいにサヨはその場にしゃがみ込み、顔を伏せて地面に唾するように言葉を吐いた。
 「うそじゃ!哲也が死ぬはずない・・・」
 サヨはうずくまったまま、伏せていた顔を神尾に向け、不思議な薄い微笑を浮かべた。
 「じき戻ります・・・哲也が死んでたまるもんですか」
 サヨの声には深い悲しみの響きがあった。すでに戦死の公報が届いているのであろう。だが、サヨはそれを受け入れることができないのだ。自分はサヨに悲しみの追い打ちをかけているのかもしれない、と神尾は思い、いたたまれない気持ちになった。
「・・・立派な最期でした」
 それだけ言うと、深々と頭を下げ、きびすを返して、二、三歩歩き出したときであった。

 「待ちや」
 今までとは打って変わったサヨの毒気を含んだ声がかかった。その声の響きに足が凍りつき、動けなくなった。サヨのほうを振りむくこともできず、神尾は立ちすくんだ。背後で動く気配がし、神尾の横を、農具かごを小わきにかかえたサヨがすり抜けていった。すれ違いざまにサヨは言い捨てた。
「あんたひとり、ぬけぬけとよう還ってきたのう」
 その言葉は、神尾の胸を貫いた・・」

 ここまで読んで、私は、親父が戦地から家に戻ってきた時を思い出した。思い出したとは言っても当時の私はマイナス3歳だから我が眼で見たものではなく、後年祖母さんから聞いたものだが・・。
 玄関に我が子の姿を見て喜ぶ祖母さんを尻目に、怒る老女がいた。
 老女は、「なんで、わしの子を連れて帰ってこなかったんや」と、親父をなじり続けたという。

2014年4月11日 金曜日 戦艦大和
 
 親父が逝って10年近くが経過するうちに、生前の彼が決して語らなかったフィリピンでの捕虜収容所時代の驚愕生活を今だ生き残っている戦友から耳にして、息子としての私にはそれを語り継ぐ責任がある、それが性への渇望のなくなった今を生きる私の唯一の意味なのではないかとの思いに支配される昨今、上歯の総入れ歯への転換を宣告され、「足のマヒ・手のマヒに加えて発語までも不自由になるのか、しかしそれも又神様仏様のおみちびきなのだろう」と思うようになってきたが、それでも少しは鬱陶しい。

 欝というほどでもないのだけれども閉じこもり症候群になり、一切の携帯コールに耳を貸さず、昼夜を分かたずひたすら布団にもぐりこんで、辺見じゅん著「男たちの大和」を読み終えた。
 数年前に角川映画で同名のDVDを見た時、「いつか原作を読んでみたい」と思ったその思いがやっと実現したのだ。

 戦艦大和は、昭和20年に沖縄へ特攻する途中、4月7日に米軍の波状的猛攻撃にさらされた。
 大和は肉片で溢れ、救急室は機能不全化し、甲板は深さ10cmにも達する血の海と化し、東シナ海の北緯30度43分、東経128度4分の海中深くに沈没する。乗組員3000人以上が戦死。
 

奇跡的に生き残った兵士たちのなかに、本書の主人公・内田貢と神尾克己がいた。彼らにとって戦後の60年間は同じ釜の飯を食って海の藻屑となった戦友たちに対する贖罪の歴史であり、それ以外にはなんの意味もない無駄な生であった。

 生前の内田貢は、養女・真貴子に、「俺が死んだら4月7日に大和の沈没地に行って俺を散骨してくれ」と言うのが口癖だった。昭和の終わりに養父・貢が亡くなり真貴子はその地を目指し、起点の枕崎漁港へ行く。そこでチャーターした小型漁船・明日香丸の船長が神尾克己だった。二人を結びつける運命の赤い糸である。


 内田が戦後も生きていたことに驚いた神尾は命を賭して東シナ海の片道7時間を突風や荒波に耐えながらひたすら走る。その間、神尾は昭和20年4月7日にタイムスリップするのである。、

2014年4月10日 木曜日 足羽神社を尋ねて
 
 昨日の午後、我々「ふるさと語ろう会」のメンバー十数人は足羽山の中腹にある足羽神社の宮司・馬来田(マクタ)氏の講演「継体天皇を尋ねて」を聴いていた。



 パンフ
には
「男大迹王は、58歳にて第26代天皇(継体天皇)に即位。ここ越前国を離れるに当たり、自らの御生霊を此の宮に鎮め、御子・馬来田皇女を斎主として後を託した」と書いてある。

 馬来田氏は「ですから、馬来田の姓は今から1500年前に登場。継体天皇から数えて私で60代目に当たります」と言うではないか。

 講演のあと、馬来田氏の引率で足羽山頂にある継体天皇像の前まで歩いた。
別れ際、会員たちが「牧田さん、会長としてお礼の挨拶をしろよ」と口々に言うので、私は襟を正して一歩進み出た。そしてこう言った。

 「本日はいろいろ勉強させていただき、ありがとうございました。マクタとマキタは一字違いで発音がよく似ています。宮司の端正な横顔は確かに高貴な血筋を感じさせますし、私の横顔も地元・あわら市では貴種の血をうかがわせるとささやかれています。いわゆる貴種流浪譚というやつで、継体天皇の同じ末裔どおし、親近感を味わわせていただきました」を挨拶の結びとしたところ、会員たちから「牧田さんは、敦賀気比の松原に天女が運んできたはずじゃないか」とのブーイングが出た。

「いやいや、天女云々は私の母方の血筋。継体云々は父方の血筋です。誤解なさらないように」を付け加えて挨拶をえた。高貴な血筋の持ち主は出自を説明するのがなかなかむつかしい。

2014年4月9日 水曜日 オープンカフェに桜が咲いた
 

 新しいパソコンでのインターネット接続が、Mくんのサポートによってやっと可能となった。これで、ウインドウズXPパソコンをインターネット非接続での仕事専用、ウインドウズ7パソコンをインターネット接続でのブログ等専用と区別しての使用となる。明らかにこのほうが便利だし、大枚六万数千円をはたいて購入しただけの価値があったと信じる。これからも、マイペースでブログを書いていこう。

 そういえば、本日は「ふるさと語ろう会」のメンバーで足羽神社へ出かけ「継体天皇の謎」にせまってくるので、明日のブログに書き込むつもりです。

 ところで、「声の広場」に書いているとんぼさんの文章はすべて事実です。頭から流れ出て床面が赤く染まっていくのを見た時、私は気を失ってしまいました。30~40分間失っていたようです。

西洋の詩人・リルケは自分の指先にささった薔薇の棘で血が流れるのを見てショック死したほどに繊細な感受性の持ち主だったそうで、それに比べればまだまだ鈍感な私だといえますが、この事故で私が得た教訓は

①「60歳代にもなると若いころの体力は既に失われているのだから無理をしてはならない」であり、付け加えるならば
②先日、歯科医S氏から「牧田さん、上の歯はもう総入れ歯にしなけりゃなりません」と言われた私は「人間、歯を磨かなくてはならない」と思ったことです。
さらに付け加えるならば
③夕暮れになると、向こうから歩いてくる人が誰だかわからなくなる。男女の別さえわからない(除・美女)。つまり目の衰えが加速度的に進行するのだから、「夜道は気をつけて歩かなければならない」ということです。

 2014/04/06 (日) 田中初勝利
 
 ヤンキース田中のMLBデビュー戦をテレビ観戦した。相手はカナダのトロント・ブルージェイズ。試合も面白かったが、それよりも球場のスカイドームが懐かしかった。

 20年ほど前、私と妻はトロント郊外のオークタウンにあるヘイズ氏宅で10日間ほどのホームステイを楽しんだ。ある日、私はMrsヘイズに連れられてトロントチームの春季キャンプを観に行った。キャンプなので試合ほどの緊張感もなくそれほど面白くなかったが、開閉式ドームの操作室を覗いた時には、とても興奮。ドームが開く時に巨大な歯車がギシギシと動くのである。ドームが二つに分かれ雲一つない青空が見えた時、興奮はマキシマムに達した。

 2014/04/04 (金) 阪神タイガース
 
 昨晩の午後7時、一組の中年カップルが事務所にやってきて、ぼくは晩飯に誘われた。
 ぼくらは芦原の東温泉にある某蕎麦屋へ行き、鍋焼きうどんを注文した。餃子をサカナに飲む清酒はことのほか美味い。
 ぼくは快活をよそおってアホなことをしゃべりまくっていたのだが、その外面(そとづら)とは別にとても気になっていたことがある。阪神vs中日戦の結果だ。

 今朝、読売オンラインを開くと「能見が今期初勝利=プロ野球・阪神ー中日戦」がスポーツ欄トップ記事しだ。これで阪神は三勝三敗、優勝への希望はつながった。人生、ネバーギブアップである。

 2014/04/03 (木) 歯 
 
 歯の猛烈な痛みに耐えかね、歯科医院へ直行。「残っている歯の殆どが根元で溶けていて、もうすぐポロリと抜け落ちます。上の歯は総入れ歯にしなきゃならんでしょう」と言われた。ついにこの日がきたのだ。

 小学生の時には歯の健康優良児として表彰され、二十歳前後の時には宴会のたびに、並ぶビール瓶の栓を歯でこじあけ、「人間栓抜き」と呼ばれ賞賛された。
 頑健な我が歯も末路は悲しいものとなった。

 これからは
①肉類を食えず、菜食主義者となる。
①音程はしっかりしていても発音が不明瞭となり、カラオケで「港町ブルース」を歌えない。
①会話が面倒くさくなり、ますます無口になる。・・これらが予想される。
それはともかく
「異形の将軍」も下巻に入り、角栄の功罪の罪の部分に軸足が移ってきた。財をなすことへの執着が人並みはずれて強く、また、金をばらまくことによって人を味方につけていく。多くの政治家が持つ裏面なのだろうが、その露骨さはインテリ政治家には遠く及ばないものである。臆面の無い行動なので、国民の目には陽気に映り、いわゆる大衆的な人気が拡がっていく。拡がっていくことが、破滅に向かって進んでゆくことにもなるのだが・・。

 2014/04/02 (水) 足ることを知らば
 
 「足ることを知らば 貧といへども富と名づくべし。財ありとも欲多ければ 貧と名づくべし。」( 往生要集)
 このような達観はしゃばでうろちょろしていてはなかなかむつかしい。だから煩悩衆生というのだろう。

 知り合いの女性がこの世の小汚さに愛想を尽かし福井県を脱出。岐阜県に移り住み、尼僧を目指すこととなった。ずうっと一人で生きてきたからできることとはいえ、ぼくは密かに拍手を送りたい。

 そう思いながら朝の散歩を楽しんでいたら、隣・山口さんちのモクレンがまっさかり。幹をだきしめて、人類の未来を祈りました。
 
 それはともかく
 「異形の将軍」の
・・堤防改修計画は、二十七年に実施されることになる。
 角栄のこのようなはたらきは、地元で評判になった。
 彼は炭管疑獄事件の被告であるが、民主自由党内での地歩は、抜け目なくかためていった。
 角栄には、自分のもっとも有利な進路を見つけだす、天与の感覚がある。第三次吉田内閣で、大蔵大臣を池田隼人にすることを主張したのである。
 池田隼人は明治三十二年、広島県賀茂郡竹原町の酒造業をいとなむ家に生れた。角栄より十九歳年上である。五高、京大法学部を卒業し、大正十四年大蔵省に入った。 
 池田は在職中に象皮病という難病にとりつかれ、休職して竹原の実家で養生した。病気はいっこうに回復しない。
 二、三年のうちは同僚たちに取り残されるのを苦にしていたが、ついに前途に望みを絶ち、四国の仏寺を遍路してまわった。・・のくだりを読んでいると、田中は挫折を経験した人しか信頼しなかったのではないかと思えてくる。

 2014/04/01 (火) きょうから四月
 
 「ウインドウズXP・サポート業務終了」及び「消費税値上げ」の二点がずうーっと気になっていた。
 そこで、昨日の午前中に某家電屋へでかけ清水の舞台から飛び降りたつもりでホームページビルダ-18を購入し、午後にはこのソフトのインストールに励んだ。

 夕刻にインストールを無事終了して四月からのパソコン使用態勢が整ったことにほっこりし、ホームバーの棚からブラックニッカウイスキーをとりだし、グラスに注いだ。

 「人間は何故生きているのだろうか」という一大テーマに思案をめぐらせれていた時に聞こえてきたのが事務所ドアをノックする音。

 来訪者はVPで、話はあわら市職員人事異動がテーマとなった。昨日行った嶺北あわら消防署でも感じたことだが 、今、公務員は人事異動であわただしい。

 ぼくの場合の人事異動は昨年の六月。市議を辞職したことで生活環境が大幅に変った。会いたい人にだけ会い、人生の深遠を語り合う生活となった。時間に追いかけられない生活というのは楽しいようで悲しい。悲しいようで楽しい。
それはともかく
田中角栄は、昭和21年に行なわれた衆議院議員総選挙に初めて立候補したが、落選。捲土重来を期した二度目の立候補で見事当選した。

昭和22年の初夏、田中はある男と運命的な出会いをする。後に刎頚の友となった小佐野賢治である。田中と小佐野は育った境遇が非常によく似ていた。

小佐野は大正六年、山梨県東山梨郡勝沼町に生れた。
 生家というものはない。貧しい両親の子に生れた。二田村の旧家であった田中家とは比較にならない極貧者の子である。
 耕作するにも田畑はない。村内の豪農の納屋、作業小屋、寺院の隅などを借りて転々と移り住んでいたと、大下英冶氏の著書「梟商」などにしるされている。
 小佐野は十六歳のとき、一円五十銭の切符だけを持ち、中央本線で上京した。本郷一
丁目の自動車部品とガソリンを扱う本郷商会に、住み込み店員としてはたらく場所を得た。