2014年08月

  2014/08/31 (日) クラシックコンサート来場のみなさんへ 
 友人の達川氏が企画したコンサートなので、ぼくは、受付をしていました。

 休憩時に「バイオリンのメンバーはどこから?」と聞かれたのですが、総勢45人。福井県内は7人で、そのうちあわら市内は二人です(どうでもいいことですがそのうちの一人が私の妻)。あとは、姫路から富山から今津からエトセトラとのこと。

 プロ三人のトリオ演奏(左端のフルート演奏者が、達川氏の娘で、パリ留学帰りの達川なつみさん)。

 金津中学校と藤島中学校のブラスバンド部も出演。



 なつみさんとツーショット(牧田事務所前で)

 それはともかく
 今朝、私のメールにこういう文章が入ってきました(原文のママ)。

① 「牧田さん運営の協力、お疲れ様でした。オーケストラの演奏昨年より上手になりましたね。来年はもっと上手になるのでしょうね、期待していますから続けてくださいね。プロの演奏さすがでしたね、ピアノ演奏も唸りました。」昨年も行きました中年のおばん

②「昨日ご苦労様でした。コンサートが成功裏に終わりおめでとう。若い女性から花束が届いていましたね。さすがでございます。脱帽。!お誘い有難う。」S女

 ありがとうございます。励みになります。でも②については誤解です。届いていた花束の「牧田様当て」は、ぼく当てではなくて、ぼくの妻当てだったのです。
 考えてごらんなさい。観客席には、ぼくのガールフレンドたちがいたのですから、ぼく当てだったら、女の嫉妬の場となっていたでしょう。


  2014/08/30 (土) 肌寒い朝 
 ここ数年間会ったことのない知人を昨日に訪問。ブザーを鳴らして玄関に入った。応対に出てきた彼女を見て、僕はびっくりした。別人かと思ったのである。

 問わず語りに彼女は話し始めた。昨年、脳梗塞を発病。意識不明のままに大手病院に運ばれ、長期の入院を経て、自宅に戻った。体重がげっそりと減り、気力は萎え、発病まで乗っていた大型乗用車を売り払い、代わりに軽自動車を購入したのだけれども、いまだに運転することができず、家に逼塞していると言う。

 聞いていると、七年前のぼくの発病経過と全く同じである。
脳障害は(程度の差こそあれ)メンタル面・フィジカル面の双方にわたってマヒを残す。マヒを治すためにいろいろと試みるのだが、治らないと悟った時には、マヒが障害ではなく個性なのだと認識することが大切だ。個性と考えるならば、脳の不具合、体の不具合が愛おしくなってくる。

 行動半径は極端に狭くなるが、逆に言えば、それだけ、足元を虫眼鏡でみるようになる。
 人間関係は極端に狭くなるが、それだけ、信頼関係が濃密になる。
 女性関係は極端に狭くなるが、それだけ、プラトニックの大切さを知ることができる。

 どうしても「生と死」の問題を頻回に考えることになり、見た目はともかく、心の動きには、心棒ができる。猥雑さがなくなることで、宗教への道が開かれる。
 それはともかく
 本日は「クラシックコンサ-ト」。整理券がなくても構いません。入場無料です。是非、ご来場ください。

  2014/08/29 (金) きょうは出張
 
 オープンカフェの砂利敷き部分から芽を出してきた朝顔。最も高貴な色と言われている紫色の朝顔が咲き誇っている。
 

念ずれば花ひらく
念ずれば
花ひらく
苦しいとき
母がいつも口にしていた
このことばを
わたしもいつのころからか
となえるようになった
そうしてそのたび
わたしの花がふしぎと
ひとつひとつ
ひらいていった   坂村真民

  2014/08/28 (木) 林檎と葡萄
 
 昨日の昼過ぎに、Nさんの農場へ行った。
林檎や葡萄が、防御ネットでガードしているにもかかわらず、空からはカラスの襲撃で地上からはハクビシンの襲撃で食い荒らされている。収穫間際になってこのようなめにあうことは、農家にとって悲しいことだ。

 スタインベックは怒っているだろう。美空ひばりは泣いているだろう。



 いただいた袋付きの林檎(かろうじて残ったもの)と清酒一升瓶・福正宗をケトラ号の助手席に置いて、「リンゴ追分」を口ずさみながら、家路を急いだ。
 それはともかく
 「藤沢周平 未刊行初期短編」を読み終えた。藤沢の小説への登場人物は、武士であれ町人・職人・良妻・悪妻であれ、各々が暗い過去を背負っている。
 藤沢にとって「生きる」とは、「過去と真摯に向き合う」ことである。そこに一種の矜持がうまれる。所作が端正に見えてくる。

  2014/08/27 (水) 8月も もう終わりか
 17年前に70歳で亡くなった藤沢周平の「未刊行初期短編」を図書館で見つけたので、CADの合間を縫って読んでいる。海坂藩シリーズもの、彫師伊之助捕物覚えもの、本所しぐれ町物語など、後年(こうねん)にぼくを魅了し続けた小説家の文体が、洗練される前ではあるとしても、すでにできあがっていて、「小説家のすべてはその処女作に埋っている」という世間に流布した言葉を確認した次第だが、読んでいるうちに、映画化もされた「武士の一分」を思い出した。

 この映画は、監督が山田洋次で、出演者はキムタク、壇れいなど。
 ごくごくかいつまんで粗筋を言うと、主人公・キムタクは海坂藩藩士で藩主食事メニューの毒見役として仕えていた。ある日の夕餉に出たなんとか貝が腐っていたかなんかで、キムタクの目はつぶれてしまう。愛妻・壇れいは、上からのおとがめをおそれて奔走する。ある晩、にやけ顔の悪家老に自宅・奥の間へ呼び出され、「よいよい、大丈夫じゃ、わしがなんとかする。そのかわり・・ヒヒヒ・・」と、悪家老は壇れいを押し倒し、体の上にのしかかったのである。
  後日、これを伝え聞いた盲目の剣士・キムタクは壇を離縁し、悪家老と決闘。そして、見事に勝つ。

 10年近く前だったと思うが、我々あわら市議会の面々は、大阪へ視察研修に行った帰りの大型バスのなかで、この映画(DVD)を観た。観終わったぼくが、うつらうつらとしていたら、「いい映画やったなあ。あわら市議会でもこの映画をつくったらいいなあ」という声が聞こえてくる。「壇れい役はAさんや・・だって女性議員は一人しかいない」「藩主役はBさんや・・気品のある物腰とくぐもった声が最適や」「悪家老役はCさんや・・にやけたすけべ顔が最適や」と、聞こえてくる。
 最後に、「キムタク役は、牧田しかいないやろ」と誰かが言うと、「そうだ、そうだ」の大合唱となった。

 確かに、ぼくは「あわら市議会のキムタク」と以前から呼ばれていたから、主演を命じられても仕方ないなあと思った。

  2014/08/26 (火) 昨日の一日
 午前中は、来訪客三名。
 初めの来訪者A氏から、「泰澄大師の生涯」についての講話をいただき、次の来訪者B氏とは「男女の不思議な愛」についてを語り合い、次の来訪者C氏からは、「JR芦原温泉駅前広場建物」の進捗状況とその矛盾についてをうかがった。そうこうしているうちに正午となったので、昨晩の余りものおかずを使っての肉汁丼を堪能。

 
 すぐに、「愛車ケトラ」を市外某病院へ走らせた。事務長と「特殊建築物定期調査報告書作製」についての打ち合わせを終えたのち、ケトラを三国の某牧場へ走らせた。
 牛の世話で忙しそうに働いているおじさんに、「一期一会や、是非きてほしい」と、「クラシックコンサ-ト」の整理券を渡して、牧場をあとにした。

 帰路に立ち寄ったUさん宅で、「貴方のブログを読んでいると、この頃は宗教に凝っているみたいやね。この入門書を読んだらいいよ」と、貸してくれたのが「神と仏をめぐる全信仰の流れ 日本の宗教の事典」

 じっくり読ませていただくつもりです。
 それはともかく
 コンテンツ「トンボ作品リスト」に、「越の大徳 泰澄 伝説」を追加しました。お読みください。
 それはともかく
 「クラシックコンサ-ト」は整理券が無くても入場できますので、お気軽にどうぞ。

  2014/08/25 (月)  新しい週の始まり
 昔、宮本輝ばかり読んでいた時期があって、何かの本のなかの、「人間であるってことがすでに病気さ。なにかっていうと、手を組んで共同体を作りたがるのは病気だよ」という台詞を今でも覚えている。

 その言葉の影響なのか、7年前の脳障害の後遺症からくるものかはわからないが、街を歩いていて人間の群れに出会う時、あるいは歩きながらケータイ画面やスマホに見入っているひとたちに出会う時、彼ら彼女らが骸骨に見える瞬間がある。骸骨とまではいかなくても、ビュッフェの娼婦のような頬骨のこけた顔に見えてくる。

 結果として、イベントや祭りなどの場へはよっぽどの理由がない限り顔を出さないようになったし、女は嫌いになってきたし、妻及び気のおけない数人のひとたちとの腹蔵のない意見交換だけが 僕の日常となってきている。
 60を過ぎてから事業を起こそうとする人がいて昨日はその思いをじっくり聞いていた。「人間死ぬまで仕事」だ。ぼくものんべんだらりは許されない。

  2014/08/24 (日)  昨日の一日
 昨日の午後に開かれた中島哲演さんの講演を、頷きながら聴いていた。原発銀座と呼ばれている福井県嶺南地方で、小浜市民が原発誘致拒否を貫くことができた背景にあるものが、反権力・反金力・反暴力の姿勢だったことがよくわかる。と同時にこれらの「反」が、特別に培われたものではなく、人間が本来持っている()の姿であることを説くあたり、宗教者の姿勢が感じられた。

 講演が始まる前、中島さんと個人的に話をしていて知ったのだが、彼も7年ほど前に脳障害で倒れ、1/4ほどが破損。ほぼ元通りになるまでのリハビリの過程を話してくれた。
 ということは僕と同じ時期に倒れ、同じ時期にリハビリに励み、付け加えると、同じ時期に立花隆の臨死体験に関する本を読んでいたことになる。
 同じ体験をしているのだから、僕も、あのような立派なひとに一歩でも近づきたいと、心に誓った。

 講演会場を出て、6時にあわら市内の某料亭へ。男性三人+女性八人での飲み会だ。ぼくは、宗教の話をしながら焼酎を飲もうと思ったのだが、年増ではあっても沢山の女性がいる場には色香がただよう。その雰囲気にのまれて、宗教の話ができなかった。


  2014/08/23 (土)  無題
 ・どうも、予定が遅滞気味だ。思いもかけぬ雑用が入ってくるためである。「予定はあくまでも予定。決定にあらず」と思えばどうってことないのだが・・。

 ・一昨日に広島の友人宅へ電話して、土砂被災の模様を聞いた。彼は海側に住んでいて、被災を免れたのだが、「よかったなあ」と言いながらも自分の言葉に違和を感じる。友人が被災者でなくても、同じ人類という共同体の成員が被災しているのだ。

 中東で起こっている殺戮も、遠い地だからマスコミの報道も少なく、どうしても「対岸の火事」となってしまう。思うに、我々は生まれてから死ぬまで煩悩愚息の衆生であり続けるのである。
 宗教の徒になろうと思う。 深山に籠り千日荒行に挑みたいが、このカラダでは絶対に無理なので、楽な修行方法を模索しています。

  2014/08/22 (金) 昨晩は同窓会総会
 数日前に金津中学校同窓会会長の大下さんがやってきて、「こんど、同窓会定期総会がある。総会のあとは、西川憲弥先生を囲んでのカフェ歓談会や」と言う。
 この会に出席したことはないのだが、「西川先生が来るのなら
 
参加しよう」と思った。
 「女性たちがたくさん来るのなら、きちっとした身だしなみが不可欠」と思い、衣料店・シマムラで作務衣(さむえ)(綿100%)を購入。

 宗教人をめざしているので買った作務衣。これを着て会場へ向かうと、女性たちの目線が日頃と違う。うまく言えないが、まなざしにあこがれが宿っている。

 「人間に一番たいせつなものは身だしなみやなあ」と、僕は思った。

  2014/08/21 (木)  本日は同窓会カフェ
 数十人の死者がでた広島土砂災害で、市の避難勧告の遅れが指摘されている。
 (避難勧告を検討する立場だった市消防局・危機管理部長の「分析を誤った部分があるのは間違いない。遅かったのも間違いない。避難勧告が出せていれば違った結果になった」)という新聞記事を読んで、「それならば、沢山の人の死亡は、その原因が人災によるものだった」ということになり、殺人罪ではないとしても、過失致死罪適用ということになるのか。

 午後四時からは、金津町戦没者慰霊祭。

 牧田家は遺族家庭ではないのだが、「①一昨年まで議員として参加していた。②親父がフィリピン戦線に従軍し、多数の戦友を失っている」の理由で参加した。遺族席を見渡すと、もうながくはない人たちでいっぱいだった。

 慰霊祭を終えて帰宅。テレビをつけると、敦賀気比vs盛岡大付の真っ最中。ものすごい試合だった。気比松原うまれの僕の霊的応援能力によるものだろう。
 とかなんとか考えているうちに、男性四人が来訪。「原発を考えるあわら市民の会・世話人」会だ。
 8月23日に、中島哲演さんがイネスへ来ます。よろしかったらどうぞ。

福井県で、原発の再稼働を認めないように西川知事に求める署名運動が始まっています。あわら市でも署名運動をやっていこうという意見がありますが 署名運動の目的や意義について、よく解らないという意見もあります。署名運動で、原発再稼働ストップに何か効果があるのか? 例え、有権者の過半数を上回る署名を集めても、西川知事が署名ごときで、再稼働を認めないとは思えないなどです。 そこで、署名運動の提案者でもある中嶌哲演さんを囲んで 署名運動の目的や意義などを話合うことになりました。あわら市、坂井市合同で開きます。

日時:8月23日(土)午後2時から4時半
場所:道の駅「さかい」いねすホール(プラント2北となり)
共催:いらんざ原発!坂井市民の会 原発を考えるあわら市民の会

                               中野


  2014/08/20 (水) 無題
 ↓水槽のメダカたち 幸せそうに泳いでいます。


一年ぶりに早朝散歩を開始。
 けさの午前六時に竹田川右岸の堤防に出た。大きく深呼吸をしてから歩き始めた。両足ともに高く上がらず、ふくらはぎの鍛錬にはなり得てないことが瞬時にわかる。十数歩歩いたところで、左足首にキリリと痛みが走る。いきおい、右足にだけしか力が入らないので、左足は右足に引きずられる厄介な存在だ。とはいうものの、立つためには両足が必要なので、左足も愛しい。
 数十歩歩くうちに、腰回りの痛みがひどくなってきた。ネバーギブアップで歩き続けるうち、痛みがやわらいできた。

 結局、十五分程の散歩で終わったが、初回にしては充分と言えます。
 これからは、雨の日も風の日も雪の日も雷の日も、頑張って歩きます。

 ↓新装なった「居酒屋おまき」

 ぼくは、ここを秘かに「悲しみの館」と名づけた。

  2014/08/19 (火) 北信越勢 強し
 宮本輝著「三十光年の星たち」を読んでいるうちに夜が白み始めてきた。

 宮本といえば、「川」を題名とした何冊かの小説があり、記憶でいうと、僕が初めて読んだのは「蛍川」だ。本のラストシーンが蛍の乱舞で、その描写が幻想性を十分に発揮していた(と僕は思う)。

 「三十光年の星たち」は、主人公・坪木仁志が佐伯老人とふたり旅をするなかで、人間の持つ猥雑さや崇高さを教えられていくという設定。本の帯にはこう書かれている。
 「京都に住む三十歳の坪木仁志は、職を失い、恋人に捨てられ、明日の生活もままならない。親に勘当され、金貸しの佐伯平蔵から借りた八十万円の借金を返せるあてもない。そんな坪木に佐伯はある提案をする。それは、借金返済の代わりに坪木を車の運転手として雇い、返済の滞る人々のもとへ「取り立て」に出かけるというものだった・・・。
 それはともかく
 今年の甲子園高校野球。北信越勢快進撃やね。まだどこの県も負けていないし、北陸3県は三回戦進出だ。

  2014/08/18 (月) 仕事再スタート
 今年のお盆は、戦国時代の小説を読み親鸞聖人伝を読みそして敦賀気比高校の試合をテレビで観ることだけで終わった。自宅から外へ出るのは、ガソリンスタンドへ愛車「ケトラ」の給油に行くかコンビニへ安煙草・「若葉」を買いに行くかだけだった。
 自宅閉じこもり故、会話相手は妻及び里帰りした妹だけだったが、双方から、「今の若い人たちには、日本とアメリカが戦争したことを知らない層が増えている」と言われてびっくりした。

 僕は昭和24年生まれで、終戦当日はマイナス四歳だった。福井大震災当日はマイナス一歳だった。その混乱のなかで生を受けたことになり、復興に向かって頑張る父母祖父母の背中を見ながら育ってきた。
 戦地で猛爆のなかを生き残った兵士たちであれ、銃後の兵士たちであれ、「戦争はもう絶対に嫌や」という戦後日本人の思いの総体は、日本国憲法第9条「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」に明記されることとなった。

 歴代自民党が国是としてきた憲法第9条が、安倍内閣によって削除されるだとしたら、その日をみるまえに、この世からおさらばしたい。幸いに、親鸞を読むなかで、「往生することは安心(あんじん)である」という思いが、ぼくの胸中に育ちつつあります。
 それはともかく
 昨日、一昨日と衣料品スーパーをまわって作務衣(さむえ)をさがしたのだが、みつけることができなかった。何故作務衣かというと、得度をめざしているからである。ゆくゆくは、醜悪な現世に見切りをつけて、僧界を目指したい。ただし普通のお寺に入りたいとは思わない。尼寺に入りたい。

  2014/08/17 (日) お盆

 「原爆と人間展」で目を引いたのが一枚のモノクロ写真。

 
 被災直後の写真で、少年がおぶっている弟は既に死んでいる。少年は、直立不動の姿勢だ。目はじっと遠くを見つめている。少年の目に何が映っているのだろうか。

  2014/08/16 (土)  早朝からすごい雨だ 
 早朝からすごい雨だが、雨の歌といったら、やっぱり城ケ島の雨だ。

 昨日午前中の来訪者は、久しぶりに自分より年下の男性。
 とはいっても60を超えているので、昭和の残照といった雰囲気を持っている。

 おりしも8月15日だったので、「人間の生死」が四方山話のテーマとなった。
 「私たちは、この世に生まれてきた時点で、どう生きるかを宿命づけられている。神さまが個々人の生をプログラミングしているのだと思う」と、彼は言う。

 幼少時から快楽主義者で神仏のことなど考えたことのなかった僕だが、7年前の幽体離脱体験を契機として、「もしかしたら神はいるのかもしれない」というあやふやな「神仏信仰者」に変わったので、彼が口に出した「神」のことを一日中考えていた。

  2014/08/15 (金) 忠臣蔵
 あわら市庁舎ロビーで公開されている「原爆と人間展」は本日が最終日で、夕刻には撤去される予定です。
 清水義範著「上野介の忠臣蔵」を読み終えた。忠臣蔵といえば長谷川一夫主演で吉良上野介を日本有数の大悪人にしたてあげたNHK大河ドラマ「忠臣蔵」が有名だし、そのドラマを見たぼくも又赤穂浪士の義士ぶりに感銘を受けたひとりだった。だけど、その後、丸谷才一著「忠臣蔵とは何か」や井上ひさし著「その後の忠臣蔵」を読み、あるいは新聞批評で違った見解を目にするにつけ、「よくわからないなあ」という思いが昂じてきたのだが、清水のこの本を読んで、頭の中がすっきりしたような気がする。

 吉良上野介義央(よしひさ)は高家筆頭(徳川幕府の官職で朝廷との対応が仕事)の家柄で、刃傷沙汰が起ったのは、五代将軍綱吉の時代。朝廷からの使者に対する接待役二人のうちの一人・浅野内匠頭に対して接待方法を細かく指図した。しかし、もともとが接待役などやりたくなかった癇癪持ち・浅野には指図されることが気に食わない。「うるせえ爺さんだ。好きにせいとだけ言っておけばいいものを・・」と、爺さんに対する憎悪は募っていった。
 ま、性格的に対照的な二人だから「松の廊下事件」が起ったとも言える。

 事件の報告を受けた独裁将軍・綱吉は怒り狂った。「朝廷からの使者への接待という大事な日に、浅野はなんてことをやりかした。浅野は即日切腹じゃ。赤穂藩はとりつぶしじゃ」と命令した。

 「喧嘩両成敗」が御法度のなかにあるが、この場合は、確かに、「喧嘩」ではない。れっきとした武士の浅野が、幕府の中の公家とも言うべき吉良に対して個人的な遺恨(それも理由のはっきりしない)で、一方的に切りかかったのである。対する吉良は刀もぬかずに「恐ろしや 恐ろしや」と、逃げ回っていただけである。

 ぼくは思う。「この刃傷沙汰の処罰は、内匠頭個人に対してだけ下るものではない。何千人かの家臣たちが路頭に迷うことになる。いくら短気な浅野でも、そこらあたりはわかるはずだ。ぼくが浅野だったら、耐えがたきを耐え、唇をかむにとどめるだろう。浅野は想像力皆無の大名不適格人だったのか」と思う。

 大石内蔵助以下浅野家臣団は、城をあけわたして浪々の身となったあと、「お家再興」の願書を幕府に提出したが、幕府は他の藩主に国替えさせた。つまり再興はかなわなかったのだ。ここで「吉良邸討ち入り」計画が秘密裏に決定する。
 しかし、おかしいのは、それを決定した大石内蔵助以下浅野家臣団だ。内匠頭及び赤穂藩のみに処罰を決めたのは綱吉つまり幕府であって吉良上野介ではないのである。例えば大リーグの試合では「チャレンジ」という制度があるが、それはあくまでも審判団に対する異議申し立ての制度であって、相手チームに対するそれではない。
 その意味で、 内蔵助以下は幕府に対して異議申し立てをすべきであった。あるいは、江戸城本丸への討ち入りをすべきであった。勿論、物理的には不可能で、内蔵助以下47士は惨殺されてしまうだろうが、義挙としては理にかなう。

 元禄十五年十二月十四日深夜、吉良邸に討ち入った赤穂浪士は翌日の日の出前、ついに炭俵に隠れた上野介を見つけ、引きずり出す。

 上野介がよろけるように前へ出たところを、武林唯七が一刀のもとに切り伏せた。
 体中が、不思議なぬくもりに包まれた。
 上野介の意識が、靄に包まれていく。
 ああ・・・三郎。
 三郎、まいったのか。そちらのところへ、つれていってくれ。
 上野介は幸せそうにほほ笑んだ。そして崩れるように倒れ、絶命した。
     三郎とは、上野介の実子で九歳の時に夭折している。

  2014/08/14 (木) 松島や ああ松島や 松島や
 嶋々や 千々にくだけて 夏の海
 土芳という門人の文集で、「芭蕉師匠が松島で詠んだ句」として紹介されている。真偽のほどはわからない。

 僕はこのくだりで、ふたつのことを思い出した。
①15年ほど前、金津町議会は介護保険制度研修をテーマとして、仙台へ行った。その時に泊まったのが松島湾に面する某民宿で、早朝(午前6時頃)に民宿のベランダから朝陽の出を眺めていた。海に映る朝陽のきらめきに言葉を失ったのだが、それにも関らずこの素晴らしさを誰かに言葉で伝えねばと思い、北金津に住む当時のGF(ガールフレンド)に携帯コールして、感動を共有したのです。

②東北大震災勃発時に、東北各地の被害状況をテレビが伝えるなかで、「松島湾内は被害が極小だった」というニュースが流れた。「湾内にはたくさんの小島があって、大きな津波も湾内に入ると島にぶつかるたびにエネルギーが減衰していく」という説明に、なるほどなあと思った。

 「異聞おくのほそ道」で、童門は曾良日記と芭蕉日記を対比的に紹介している。即ち、「曾良は武士だから武骨に事実そのままを学者風に記録しているだけであるのに対して、芭蕉は芸術家だから風景をそのまま見るのではなく、その背後にある歴史を読み取り、そこに自分独自の心象風景を見る」と言っている。勿論、凡人にはかなわぬ作業だろう。

 芸術家ではない僕も、7年前から現世への興味皆無の無感動人間になってしまったけれども、まれには心象風景に浸ることがあり、その時だけは、生きていると言えるような気がする。

  2014/08/13 (水) 童門「異聞おくのほそ道」NO3
 芭蕉の旅の目的は「西行法師の歌枕を訪ねる」ことであり、その西行は源頼朝が嫌いだった。よって白河の関を越えてからの行先は源義経ゆかりの場所となっていく。

 治承四年(一一八〇)の頃、奥州平泉に黄金の都をつくった藤原秀衡は、平家に追われた源義経をかくまっていた。義経はこの頃二十二歳の若武者であった。
「伊豆に流されていた頼朝が、兵を挙げて富士川で、平家の大群と向き合っている」
平泉でその報をきいた義経は居ても立ってもいられず、世話になった秀衡に、「兄のところに参じて、ともに平家を滅ぼしたい」 と願い出た。

秀衡もはじめは引き止めていたが、次第に義経の思いに折れて、
「わかりました。それでは供を」
そういって奥州平泉の庄司佐藤元治の子、三郎継信と四朗忠信兄弟に供を命じた。
庄司というのは、「庄(集落)の司」 ということで、中央政権から命ぜられた地方の隠れ役人である。
庄司には現地採用の地侍が多かった。土豪である。

 二人の息子を義経に従わせた佐藤元治も、文治五年(一一八九)頼朝が秀衡の子藤原泰衡を攻めてきた時に石那坂で戦い、討ち死にする。平泉から駆けつけた義経は、富士山麓の黄瀬川で、兄頼朝と対面した。頼朝は涙を流し、弟の手をとって喜んだという。だがこれはその時だけで、やがて義経が平家消滅に大功を立て、後白河法皇の信任が増すと、頼朝は機嫌が悪くなった。
「義経に逆心あり」 と告げて、いまでいえば全国指名手配の罪人に仕立て上げたのである。

 2014/08/12 (火) 童門「異聞おくのほそ道」NO2
 昨日の甲子園第二試合=敦賀気比vs坂出商業。
 来訪客が帰ったあと、TVの前に座ってスイッチをいれたら1回表で、もう4点取っている。
 結局は16対0の大勝だ。
 僕は敦賀の生まれで、敦賀を第二のふるさとと思っている。気比の松原に美しい天女が空から舞い降りてきて、玉のような赤ちゃんをそっと羽衣に包んで白砂の上に置き、舞い上がり去っていったという伝説がこの地にはあるそうだ。僕にまつわるこの伝説は根強いという。
 それはともかく
 鹿沼の宿を後にした四人。しかし健脚芭蕉にも弱点があった・・痔である。那須野原に向かう草原のなかで、尻に痛みを感じた芭蕉はいずかってしまう。随行の曾良は敬愛する師匠・芭蕉をらくにさせるため老馬をみつけてきた。馬の背に草束を載せている農夫に頼み込んで借りてきたのだが、このあたりの描写の面白さは、本文P69~89を読んでもらうしかないでしょう。
 かさねとは 八重撫子(やえなでしこ)の 名成るべし

 さて
 加賀百万石の殿様・前田綱紀にとって徳川光圀は叔父にあたる。それ故、二人は腹蔵なく意見を述べ合う仲だった。
 光圀は支配領地・常陸国の領民が、関ヶ原の戦いで中立を保った為に遠い秋田の地に転付させられた佐竹家への思慕の念強く、よって光圀になかなかなつかない現状にいらだち、「常陸国を佐竹家に返し、自分は新天地エゾに渡って自由に暮らしたい」と常々綱紀に語っていた。更に国防の観点からもエゾを重要視していた。

 「わたしがエゾにこだわり、オロシャとの交易を早めた方がいいというのは、オロシャがしきりに北辺をうかがっているからだ。とくにエゾに目をつけている。放っておけばエゾはやがてオロシャの侵略するところとなる。それを食い止めたい。しかし、現在の日本の武力でオロシャと戦争はできない。必ずこっちが負ける。どうするか。それには、産品や文化の交流を積極的におこなって、敵とするのではなく友人になることだ。わたしはその先達になりたいのだ」
 語る光圀の目はらんらんと輝いていた。目の底から、熱が噴き立ってくる。本気でこの構想を考えている証拠だ。

 2014/08/11 (月) 無題
 昨日の来訪者は5名。
  午前中の来訪者はこういうパンフを持ってきた。暇だったら行こうかなと思う。

 夕刻の来訪者ふたりの珈琲を飲みながらの対論は、焼酎を飲みながら聴いている僕には、これからの僕の生き方を暗示しているようで面白く、ふたりが帰ったあとに、童門冬二著「異聞おくのほそ道」を開いた。

 元禄二年三月二十七日、芭蕉と曾良は出発した。
 行く春や 鳥啼き 魚の目は涙

のちに芭蕉自身が
「月日は百代の過客にして行かふ年もまた旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらへて老いをむかふるものは、日々旅にして、旅をすみかとす。故人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊のおもひやまず」と有名な書き出しでつづる「おくのほそ道」の旅に出たのである。

 芭蕉の旅を怪しんだ者が二人いて、一人は、天下の副将軍・徳川光圀。
光圀は側近・佐々介三郎に「みちのくへの旅は西行法師の歌枕を訪ねる、と申しておるが、実はそれは口実で、柳沢吉保がひそかに秋田の佐竹家へつかわす密使だという噂がある・・お前、あの二人に同行して真偽を確かめてこい」と命令した。

 もう一人は、今、名前の出た徳川幕府の大立者・柳沢吉保。
 吉保は、「常陸国を佐竹家に譲って水戸徳川家はエゾの国へ移ろう」という光圀に関するうわさを気にし、幕府転覆の恐れありと懸念し、愛妾に旅の同行を命じた。愛妾の名は「すま」・・大奥で源氏物語を講義するほどのインテリで、名前のスマは須磨からきている。加えて容姿端麗で、スマは夜な夜な寝屋で吉保にくみしかれ、女の喜びを味わっていた。

そして、介三郎及びすまは鹿沼の宿で芭蕉・曾良と対面し、同行を許可されるのである。

 鹿沼の宿を後にした四人。しかし健脚芭蕉にも弱点があった・・痔である。那須野原に向かう草原のなかで、尻に痛みを感じた芭蕉はいずかってしまう。

 2014/08/10 (日) 巨人・阪神 ゲーム差0.5
  中島 敦著「李陵」をCDで聴きながらCAD図面に向かっていた昨夕にとんぼさんが来て、一緒に「湯かけ祭り」を見に、湯のまち広場へ行った。この祭りに顔を出したのは7年ぶりで、驚いたのは集まっているのが若者ばかりだったということ。何かを祭るというよりも四季を問わない若者音楽フェステイバルといった感じ。
港町ブルース一途(いちず)の僕にはとまどいが大きかった。

 とりあえず枝豆をつまみにビール、いも焼酎を飲みながらの四方山話。
 文学に造詣の深い文章家のとんぼさんは、「音楽に限らず文学の世界も平成の世になってすっかり様変わりした。芥川賞にしろ直木賞にしろ昭和の時代のものとは異次元だ」という。そして、以前、彼が夢中になった中島 敦について語り始めた。 「あの重厚で澄みきった文体は、彼の膨大な漢学素養に支えられている」という。

 こういう話を一人で聴いているのはもったいないと思い、某女性に電話した。僕と同い年だから年増女性なのだけれど、それでも場は華やいだ雰囲気になった。

2014/08/09 (土) 雨の土曜日
   ・・親鸞は宇宙万物の真実の姿である真如法性(しんにょほっしょう)が仏の本質であることを知っていた。人間はみじかい生のあいだに、人類をはじめあらゆる生きものが生まれて死ぬのを見て、新旧交代し、増減しているように思いこんでいる。
 また山が崩れ、海が陸地になることがある。そのような個々の現象を人間は、限りもなく万物が消滅変化していると思う。それは自らに執着する人間の迷いで、すべての執着から離れると、一切の万物は消滅するがままに不生不滅であることがわかる。
 そう考えれば、すべてのものの本性は空、すなわち真如であると気づく。真如法性は仏の本質でである。
 親鸞の傾倒する五世紀から六世紀にかけて活躍した活躍した中国浄土教の大学者、曇鸞(どんらん)は、その著書「浄土論註」に、仏・菩薩の体を法性法身(ほっしょうほっしん)方便法身(ほうべんほっしん)の二つに分けた。
 仏の本質は法性法身、すなわち空であるが、衆生を救うために人間のまえに姿をあらわすのが、方便法身である。
 親鸞は、国府竹ケ前の草庵に置いてある冊子に、しるしていた。
 「涅槃と申すは、かの安楽浄土なり。よろずのたのしみをつねにして、くるしみまじわらざるなり。涅槃をば滅度という」
 親鸞は、サンスクリット語のニルヴァーナを漢字に音写したものである。ニルは消す、ヴァーナは燃えることで、炎が消えたことをいう。煩悩が消えた悟りの境地である。
 滅度も完全な悟り、生死を滅して彼岸へ渡ることである。
 親鸞は涅槃、滅度が安楽であり常楽であり、実相であり、法身、法性、真如であり、仏性であると記した。
               津本陽著「親鸞聖人伝」より

 本日の朝日新聞10面に23歳で亡くなったハンセン病作家・北條民雄顕彰のことが出ている。
 僕が北條著「いのちの初夜」を読んだのは40年以上前だが衝撃的な本だった。特に、「・・園での一日の作業を終え、自分の部屋へ入る時、長靴を脱ごうとしたのだがしたのだが脱げない。みると五寸釘が足の裏から甲を貫いていた・・」と言う部分は、今でも鮮明に覚えている。

去年に引き続き、今年も「クラシックコンサ-ト」が開かれます。入場無料ですが、整理券をお渡ししますので、ご希望の方は牧田(090-1635-5710)まで。

 2014/08/08 (金) 昨晩は熟睡
  ・・親鸞は、聴衆の理解しやすい言葉をえらび語りはじめた。
 「念仏をとなえ極楽浄土に往生すると申すことをはじめに申されたのは、唐の国の善導大師であったのじゃ。浄土教は善導大師によってひらかれた」
 座敷の内外にひかえる念仏者たちは、しわぶきの音もたてず、親鸞の言葉に聞き入った。
 「法然上人は、十三歳のときに比叡山に登って以来、八万四千の仏書を読み、天台座主となるは間違いなしといわれた、知恵深いお方であった。
 ところが、いろいろと修行してみたが、厳しい戒律を守ることは形のうえではできるが、心中ではさまざまの欲が湧き起こるのをおさえることができぬ。そのうえ、おのれには知恵もないと上人はお考えになられたのじゃ。
 愚か者ほどおのれを知恵者と思い、知恵者になればなるほど、おのれの凡愚を覚るものよ。上人は、このままでは学んだことのすべては絵に描いた餅のようなもので、極楽往生は到底おぼつかなしと嘆かれて、誰もが救われる教えはないものかと願うておられた。
 上人は二十四歳のとき、奈良へ遊学なされた。それは京の西のほうに嵯峨という土地があるが、そこの釈迦堂に七日間の参籠をして、奈良へゆくよう霊夢を見られしゆえじゃ。」
                      ・・津本陽「親鸞聖人伝」より
 昨日の福井新聞に「秘湯・鳩ケ湯温泉旅館再開」の記事が出ていて、とても嬉しかった。30年ほど前に友人の結婚を祝って夫婦と一緒に行ったのがこの旅館で、古めかしい三階建て木造建物。「鳩ケ湯」は、「猟師の鉄砲で羽を傷つけられた鳩が、傷をいやすためにここの湯場を毎日訪れていた」というのが名前の由来だ。
 秘湯だから夕食に出てくるものは山菜ばかりの簡素なものだったが、谷川のせせらぎを耳にしながら口に含む冷酒の美味しかったこと。幾星霜で友人夫婦は離婚してしまったが、結婚が人生なら離婚も人生で、世間虚仮である。
 ああいう旅館だったらもう一度行ってみたい。

 2014/08/07 (木) 昨晩 
  遠方からの突然的来訪女性の話には考えさせられた。

 彼女の元夫は僕の高校時代のクラスメートで、20年ほど前に脳梗塞で倒れ、動けない体となってしまった。離婚の原因となった若い愛人もそれが理由で彼の元を去り、天涯孤独となった彼は某病院に居て、昨晩の来訪女性の献身的な愛によって支えられている。

 「彼の現在はどうか?」と私が聞くと、「それがね、彼はとっても幸せそうなの。全身マヒだけど口は達者でしゃべる中身は毎日聴いているクラッシック音楽のこととそれから・・看護婦Aさんが大好きでいかに彼女が素晴らしいかを病室内に他の患者が居るにも関らず、おっきい声で言うのよ。のろけるのよ。体を治したいという気は毛頭ないみたい。又お見舞いに来てよ」と彼女は言う。

 「人生の幸福度は幸福感し不幸度は不幸感であり、それは傍目とは関係ないところにある」と、私は思った。


  2014/08/06 (水) 熱々珈琲を飲みながら
 「死ねば死にきり」とだけ思っている僕が、このところ親鸞関係の本ばかり読んでいる理由は、50年ほど前の友人が最近、自殺したということを風の便りに聞いたことと関係がある。「歎異抄研究同好会をつくろうや」と彼に言われ、「それはいいことや、つくろう、つくろう」と安請け合いしながら結局はなんにもしなかったという負い目が残っていたし、「大学教授という順風漫歩の人生であったはずなのに何故?」という謎も残って、言わば彼に対する供養が親鸞読書の理由となっている。


 ・・範宴(のちの親鸞)は、法然にどのような恥ずかしい悩みごとをも、打ちあける気持ちになった。
 「仏の本願によりて一心不乱に念仏をとなえようとするとき、とどまるところなく湧きおこる煩悩を払うには、いかにすべきかをご教示下されませ。私には、煩悩が払えませぬ」

 法然はいつくしみの表情をあらわした。
 「人は誰にても、さようなるものよ。凡夫の煩悩は、猿が木から木へ伝うがように、とどまることなく物に従いおこりやすきものでのう。ほんじゃきに、物に従うてとめどもなく移ろう心を押さえ、静めにゃいけんばあ思いよっても、何にもならんのじゃ。心の動くまま、あるがままの己をさらけだして念仏すりゃ、かならず極楽浄土に生まるるぞと、思い定めにゃいけん。思い定めることを、安心(あんじん)と申すのじゃ」
 法然は生国の訛まじえ、熱をこめて語った。
 法然は、安心とは至誠心(しじょうしん)深心(じんしん)廻向発願心(えこうほつがんしん)三心(さんじん)のことであるという。・・津本陽著「親鸞聖人伝」より。

 読みふけっていた夕刻に二人の女人(にょにん)が現れたが、女人たちの薄着による乳房のもりあがりも、ソファに座った短いスカートで露わになった白いふくらはぎも一向に気にならない。勿論、酒類は一切口にせず、ひたすら専修念仏を穏やかに、僕は語り続けた。
広島原爆投下の日に必ず頭をよぎるのが次の詩だ。

竹内浩三  骨のうたう(1942年)

戦死やあわれ
兵隊の死ぬるや あわれ
遠い他国で ひょんと死ぬるや
だまって だれもいないところで
ひょんと死ぬるや
ふるさとの風や
こいびとの眼や
ひょんと消ゆるや
国のため
大君のため
死んでしまうや
その心や

白い箱にて 故国をながめる
音もなく なんにもなく
帰ってはきましたけれど
故国の人のよそよそしさや
自分の事務や女のみだしなみが大切で
骨は骨 骨を愛する人もなし
骨は骨として 勲章をもらい
高く崇められ ほまれは高し
なれど 骨はききたかった
絶大な愛情のひびきをききたかった
がらがらどんどんと事務と常識が流れ
故国は発展にいそがしかった
女は 化粧にいそがしかった

ああ 戦死やあわれ
兵隊の死ぬるや あわれ
こらえきれないさびしさや
国のため
大君のため

 014/08/05 (火)  葡萄を食べながら
 昨日の来訪者四人はいずれも年寄りばかりだった.
 んで、気に入った人は最後の来訪者。
 
 何故なら彼の無農薬菜園で採れた葡萄をどっさりと持ってきてくれたからです。

 んで、その前の来訪者は、三時間近く居た。
 彼からは「貴方も生きてせいぜいが10年や。人生の最後くらいは真面目に頑張って花を咲かさなあかんよ。だって貴方にはその能力があるんだもの」と、珍しく僕を褒める。たまにでも褒められると、人間嬉しいもんです。

 んで、その前の来訪者からは、10数年前に書いた公共施設の図面検索を頼まれたのだが、パソコンを開いてびっくりしたのだが、当時は今(今のソフトプログラムはJWW)とは違う無料ソフトを使っていたので作動できない。再びインストールするためにhttpを開いたら、「現在は有料ソフトとなっております」と出てきた。
 世の中すべて金なのである。

 と書いているあいだに女性X・Yから、「事務所に行くわ」との電話がかかってきた。女ぎらいの僕だけれども、「来る者は拒まず」が礼儀であって、仕方ないだろう。

 2014/08/04 (月) 昨日の一日
   昨日の早朝に近くのコンビニへ煙草を買いに行った帰り、交差点付近で交通事故を見た。とまった乗用車の傍らに大人のひとが倒れていてそれを囲むような人だかりで、胸が痛くなった。きょうの新聞では「骨折しての重症」と書いてあり、何はともあれ死亡事故でなくてよかったと思う。

 午前中に某氏宅で住宅改修設計の打合せをこなしたあと、午後は「ふるさと語ろう会」例会のスケジュール確認のため波松のKさん宅へ。スケジュール確認の終わったあとは四方山話で、テーマは大阪夏の陣。
 

 知り合いのXさんから電話があって、「歴史研究会福井大会計画者の一人から、郷土史に興味を持っているあわら市議がいると言われたが一体誰なんだろう?」と言う。僕は、「だれも思いつかない」と答えたが、Xさんは、「四角い顔の男とも云ってたぜ」と付け加えた。
 気になったので翌日にXさん宅へ行き子細を聞いた結果、真相がわかって大笑いとなった。ぼくが笑うなんて半年ぶり。

 米倉斉加年が今朝のニュースで喋っていた。学童疎開で兄弟を亡くした思いを喋っていたのだが、見ているぼくは長谷川勲著お寺のおばあちゃん写真資料を思い出した。長谷川さんの労作だと思います。

2014/08/02 (土) 無題
  五木寛之著「親鸞 上・下、激動編上・下」を読み終えて一夜が明けたが、「わかったのはあの時代の混沌だけ」との結論に至った。そこで、昨日は図書館へ行って、津本陽著「親鸞」を借りてきた。「対象的なふたりの文体を読み比べてみれば親鸞像の片鱗がみえてくるかもしれない」と思ったからだが、驚いたことに、こちらも四分冊だ。幸い土日に入ったのでCADを開かず読書に専念しようと思う。

2014/08/01 (金) 名前
   旧金津町において新住居表示制が施行されたのは、僕が議員になる前のつまり17年ほど前の頃だった。なんであんなことをするのか皆目わからなかった僕は、施行反対の思いをFM福井の昼番組で述べたし、新聞の投書欄にも書いた。

 幾星霜が過ぎたが、殆どの町民は相変わらず住所を行政区名で呼び合っている。なかには、「あれは金津町三大悪政のひとつ」と言ったひともいた。住所名のような固有名詞は、その名の成り立ちを考えると、変えてはいけないものだ。例えばJR芦原温泉駅前の新富は、元々旭区の一部であったものが、明治後期に国鉄・金津駅ができ、新たに富栄えるようになったことが語源の由来と聞いているし、私の住む坂ノ下村社・八幡神社の境内へ昔の北陸道(ほくろくどう)が加賀方面から降りてくる坂の名前が西坂であったことに起因しているし、千束は太閤検地と関係ある名前、その他エトセトラで、げに、土地の名には精霊が宿っていると、僕は思う。
 五木寛之著「親鸞 上・下、激動編上・下」を読み終えた。総ページ数1242でながかったけれども、もとより宗教を信じていない僕としては単なる読み物として楽しみながら読んだのでそんなには疲れなかった。平家から源氏の世へとそして北条氏の時代へと移り変わる戦乱の世の中で沢山の武士(もののふ)は殺し合い首を切られ、民百姓は日照り、地震、台風の余波をうけ(しかばね)となってその累々たる屍を賀茂の河原にさらし、その屍の衣服ははぎとられ、あるいは死肉が食らわれるというこの世の地獄をみた法然、親鸞が延暦寺を降りて易行念仏を広めたのは、ある意味、時代の必然だと思った。この長編の眼目は自分のことを「愚禿(ぐとく)親鸞」と称したことにあると僕は思うし、ここが現代の政治家とは決定的に違う点だと思う。
 
 読み終えた僕は、とんぼさん宅を訪ね、「善人とはなんでしょうか 悪人とはなんでしょうか」と問うた。彼は「善人とは罪障に手を染める必要のない貴族階級、悪人とは手を染めざるを得ない衆生の民。よって鎌倉以前の延暦寺にしろ南都北嶺にしろ、国家護持の宗教でしかなかった」と言う。

 色恋に関する執着をかなぐり捨てた僕は、さらに「愚禿」を目指さねば、と思った。