2015年07月

15年7月30日 木曜日 東京へ行くな
 
 鶴見俊介が亡くなって、べ平連が遠くに感じられるようになった矢先、何故か、谷川雁のこの詩がよみがえってきた。といっても、昔から散文的人間のぼくは、この詩を理解できていたわけではなく、というかわからないが故にひきつけられたというところか。
 ということで、解説は「現代詩文庫を読む」からコピー貼りつけ。

東京へゆくな

ふるさとの悪霊どもの歯ぐきから
おれはみつけた 水仙いろした泥の都
波のようにやさしく奇怪な発音で
馬車を売ろう 杉を買おう 革命はこわい

なきはらすきこりの娘は
岩のピアノにむかい
新しい国のうたを立ちのぼらせよ

つまずき こみあげる鉄道のはて
ほしよりもしずかな草刈場で
虚無のからすを追いはらえ

あさはこわれやすいがらすだから
東京へゆくな ふるさとを創れ

おれたちのしりをひやす苔の客間に
船乗り 百姓 旋盤工 坑夫をまねけ
かぞえきれぬ恥辱 ひとつの眼つき
それこそ羊歯でかくされたこの世の首府

駈けてゆくひずめの内側なのだ

 谷川雁は、単に見たことや感じたことや考えたことを叫びたてた詩人ではありません。そのように、「私」「僕」という一人称の閉ざされた独白として詩を書いていたわけではないのです。彼の中には、自然や農村共同体や、「あなた」「君」という二人称、そして「社会」「彼ら」「それら」という三人称が複雑に交錯していたのです。
 「東京へゆくな」という題名が示す通り、この詩は「あなた」に対して向けられています。「立ちのぼらせよ」「追いはらえ」など、「あなた」への呼びかけがこの詩にはたくさん出てきます。ですが、ここでいう「あなた」は特定の誰かではないし、かといってまったく空虚で言葉尻を合わせるために使われている「あなた」でもないのです。それは、不特定多数の「あなた」、呼びかけの場に常に存在しているけれど、無数の人が入れ代わり立ち代わり交替していく「あなた」なのです。だから、谷川の呼びかけは決して恋人同士の閉ざされた空間に収まるようなものではないし、誰かを特別扱いしてその人にだけ呼びかけるのでもありません。それはあらゆる人に対して開かれている、というよりむしろあらゆる人に対して開かれていたい、より多くの人に伝えていきたい、そういう呼びかけなのです。
 だから、谷川は積極的に他者に呼びかけ、そして積極的に他者からの声を聴く、そのように、他者との応答の関係を重視した詩人であります。そこでは言葉はもはや無責任に発せられるものではありません。谷川は言葉を他人に対して届けるものとして扱っているので、言葉を他人に届けるにあたってその言葉の責任は谷川にしっかり帰属しているのです。閉ざされた空間の中で親密な「あなた」に囁くのではなく、広い空間から呼びかけ応えるべき「あなた」を見つけて、責任を持って積極的に関わっていくということ、谷川の詩の他者とのかかわりの相はその辺りにあります。
 また、この詩には「都」「革命」「国」といった、社会的なモチーフが頻出しています。そしてそれらのモチーフは、例えば「なきはらすきこりの娘は/岩のピアノにむかい/新しい国のうたを立ちのぼらせよ」の部分からも分かるように、「娘」や「歌」といったあまり社会的でないモチーフと自在に組み合わされているのです。これは何を意味しているのでしょうか。
 社会というものは単なる個人の寄せ集めを超えたものです。個人が集まっただけで社会ができるわけでもないし、そこに物的施設や物流を加えても社会は生まれません。社会というものは、その部分となる要素の集合には還元できない一つ上の包括的なシステムであり、個人を規律する法則とは別の法則が社会では動いています。社会は歴史によって規定されていると同時に、法や経済などの動的システムによっても規定され、個人には還元できない様々な制度で満ちています。
 重要なのは、個人が社会を形成していくと同時に、社会もまた個人を形成していくということです。社会の内側に個人があると同時に、個人の内側にも社会がすでに入り込んでしまっている。谷川には確かにこの自覚がありました。だから、彼の詩には普通の詩に出てくるような語彙と共に社会的な語彙が頻出するのです。それは、彼が自分の内部に社会がすでに侵入していることを自覚していたからでもありますし、また自ら社会に対して働きかけようとしていたからでもあります。
 このように、谷川は「あなた」という二人称に対して責任を持って積極的に働きかけ、また働きかけられただけでなく、「社会」という三人称に対してもそれを内面化し、またそれを形成していこうとした詩人でした。だから彼の詩の世界は、単なる個人的な感覚や妄想の世界でもないし、「私」と特権的な「あなた」の閉ざされた世界でもありません。彼の詩の世界は、不特定多数の「あなた」や巨大な「社会」を包み込むと同時に、それらに包み込まれ、互いに呼応していくスケールの大きな世界なのです。
 それにしても
 持ってきてくださった「純米吟醸 酒魂手取川正宗」は、やはり一味違う。

  

15年7月29日 水曜日 阪神首位浮上  
  昨晩は、本庄地区で開かれた議会報告会に参加。参加人数は5,6名という寂しいものだった。      
 2年前まではしゃべる立場だったが、今回、聞く立場で参加してみて、その理由の一端がわかったような気がする。思うに・・出席した数人は、市の行政に興味を持っている人ばかりで、当然、議会だより「44号」「45号」の内容は熟知している筈だ。彼らが知りたかったのは、ペーパーに表せない、議会委員会での丁々発止を臨場感を持ってしゃべってくれることにあったと思う。
 というようなことを考えていた矢先に、高級酒一升瓶二本携えた初老紳士がやってきた。
 
 彼は、集団自衛法案を国会に提出した安倍内閣に対する怒りを顕わにし、「断固闘う」と、言いながら帰っていった。

15年7月28日 火曜日 大工仕事を終えて  
 
 年たけて また越ゆべしと思 ひきや 命なりけり 小夜の中山
                                      西行

 本日は涼しい。身辺の整理整頓も進みそうだ。身辺整理と言えば、パソコンをCAD専用とインターネット接続的趣味用の二つに分けたことで作業がスムーズに進むようになった(気がする)。
 それはともかく
 さきほど、とんぼさんが来訪。鼬の話しをして帰っていった(声の広場no590参照
 とんぼさんが帰ってから、「俺は猫派だろうか犬派だろうか」と、しばらく思案した。
 結論が出た。・・猫派である。
 きょうは、参院特別委員会をラジオで聴きながら、CADを頑張った。与野党のあっちいったりこっちいったりの抽象議論の内容をぼくの認知症的頭脳ではもう掌握しきれないのだが、どのみち暴走自公安倍政権を選んだのは我々選挙民であり、ならば、徴兵制を復活すべきだ。徴兵の年齢を満65歳以上とすべきだ。現代の戦争はハイテクに支えられており、ぼくのような脳内出血による虚弱人間でも弾丸発射ボタンは押せる。レバーは引ける。不幸にして一命を失ったところで、年金のことを考えれば、次世代の負担軽減につながるのである。御国の為になるのである。
 3年前に鹿児島知覧へ行って特攻兵たちの沢山の家族当て手紙を読んだ時、若者を戦場に押し出すのは、絶対にいかんと思ったのである。
                                        

15年7月27日 月曜日 新しい週の始まり 
 どうやら(うつ)が始まったようで、脳から聞こえてくるのは耳鳴りばかりだが、さりとて、仕事の手を休めるわけにはいかない。苦しいところだ。唯一の光は昨日のプロ野球で阪神が勝ったこと及び巨人が負けたこと。それにしてもヤクルトの快進撃はあなどれない。阪神スタッフよ、こころしてかかれ。
 それにしても
 僕は、昨日の朝のとんぼさんとの会話で救われたような気分になった。あの博覧強記のとんぼさんでさえ、「自分はものごとを忘れるようになってきた。昭和の時代だけが頭のなかで鮮明だ」と、言う。
 してみると、僕のような単細胞が過去をなくしていくのは、当たり前なのである。
 それにしても
 去年の四月に大枚6万数千円を叩いて買った安くて新しいノートパソコン(ウインドウズ7)が故障続きで頭にきた。そこで本日、CADデーターの全てを古いデスクトップパソコン(ウインドウズXP)に移動させた。CADはインターネット接続不要だから構わないのだ。ウイルス汚染対策をこうじてあるノートパソコンは、インターネット情報取得つまり新聞がわり、ホームページ発信及びメール交換専用とします。なんでも一台ですませようとするのは便利主義者の陥る罠だった。皆さんにも忠告します。「よくないものは時として安い。しかし、いいものは値が張る」のです。
 ふざけて言うならば、「よくない女は時として安い。しかし、いい女は値が張る」のです。
 というようなことを考えている時に、山川知一郎共産党議員が赤旗を持ってやってきた。僕は共産党が好
きではないのだが、でも、主張が分りやすい。特に国会討論での市田がそうだ。山川議員とは、一時間強話した。彼の帰っていく背中には、ぼくの「港町ブルース」が響いているのだった。

15年7月26日 日曜日 お町さん
 ひとに聞かれたので→お町さん郷土いろいろ)をブログに載せました。・・どうぞお読みください。
 昨日の午前中は、高校野球福井県予選決勝・福井工大付属福井VS敦賀気比をテレビ観戦。試合が始まった頃に某建設会社が設計依頼打合せのために急遽来訪したので前半戦をみることができなかった。建設会社が帰ってから再びテレビをつけたら福井が3点リードだ。「甲子園選抜大会全国優勝校相手に頑張るなあ」と思ったが、さすが気比でじわじわ小刻みに点を取りかえして、3対3のまま延長戦へ。結局、気比がサヨナラ勝ちしたが、緊迫したいい試合だった。どっちにも勝たせてやりたいと、思った。
 それはともかく
 昨日の早朝に、山川知一郎議員が、民報あわらを持ってきた。
 それはともかく
 小林秀雄の随筆に「人形」という短い文章がある

 「或る時、大阪行きの急行の食堂車で、遅い晩飯を食べていた。四人掛けのテーブルに、私は一人で座っていたが、やがて、前の空席に、六十恰好の、上品な老人夫婦が腰をおろした。細君の方は、小脇に何かを抱えて這入って来て私の向いの席に着いたのだが、袖の陰から現われたのは、横抱きにされた、おやと思う程大きな人形であった。人形は、背広を着、ネクタイをしめ、外套を羽織って、外套と同じ縞柄の鳥打帽子を被っていた。着付の方は未だ新しかったが、顔の方は、もう垢染みてテラテラしていた。目元もどんよりと濁り、唇の色も褪せていた。何かの拍子に、人形は帽子を落し、これも薄汚くなった丸坊主を出した。
細君が目くばせすると、夫は、床から帽子を拾い上げ、私の目が合うと、ちょっと会釈して、車窓の釘に掛けたが、それは、子供連れで失礼とでも言いたげなこなしであった。
 もはや、明らかな事である。人形は息子に違いない。それも、人形の顔から判断すれば、よほで以前の事である。一人息子は戦争で死んだのであろうか。夫は妻の乱心を鎮めるために、彼女に人形を当てがったか、以来、二度と正気には還らぬのを、こうして連れて歩いている。たぶんそんな事か、と私は思った。
 夫は旅なれた様子で、ボーイに何かと注文していたが、今は、おだやかな顔でビールを飲んでいる。妻は運ばれたスープを、一匙すくっては、まず人形の口元に持って行き、自分の口に入れる。それを繰り返している。私は、手元に引き寄せていたバタ皿から、バタを取って、彼女の皿の上に載せた。彼女は息子にかまけていて、気が付かない。「これは恐縮」と夫が代わりに礼を言った。
 そこへ、大学生かと思われる娘さんが、私の隣りに来て座った。表情や挙動から、若い女性の持つ鋭敏を、私は直ぐ感じたように思った。彼女は、一と目で事を悟り、この不思議な会食に、素直に順応したようであった。私は、彼女が、私の心持ちまで見てしまったとさえ思った。これは、私には、同じ年頃の一人娘がある為であろうか。
 細君の食事は二人分であるから、遅々として進まない。やっとスープが終わったところである。もしかしたら、彼女は、全く正気なのかもしれない。身に付いてしまった習慣的行為かも知れない。とすれば、これまでになるのには、周囲の浅はかな好奇心とずい分戦わねばならなかったろう。それほど彼女の悲しみは深いのか。
 異様な会食は、極く当たり前に、静かに、敢えて言えば、和やかに終わったのだが、もし、誰かが、人形について余計な発言でもしたら、どうなったであろうか。私はそんな事を思った。」

15年7月25日 土曜日 無題
 昨日の午後に来訪した女性(としま)は老人介護福祉施設に勤めていて、「施設に入居している認知症気味のおばあちゃんたちは、若かった昔のことを一生懸命に話すのよ」と、言う。

15年7月24日 金曜日 CADは直線コーナー
 高戸甚右エ門著「インダスの流れ」
 著者・発刊に際して
「私たちは、今恵まれた窮めて便利な生活をしている反面、おもいやりの心がすたれて、「自分さえ良ければいい」という風潮がみなぎっているが、これは人間社会の貧困そのものではないだろうか。
 戦後日本は立派な製品を安い価格で世界に売り出し、めざましい発展をとげているにもかかわらず、「国民そのものに欠陥がある」と米国ハーバード大学のエズラヴォーゲル教授が指摘された通り、日本的考えがどこでも通用するような錯覚が目立つのではないだろうか。毎年沢山の人が海外旅行すると聞くが、海外へ行くにはパスポートが必要でありこれには外務大臣が相手国に対して行路の安全を依頼する文面がついている。ところが日本人であるとの国家意識を持たず、そのような教育を受けず、国策を無視した言論が横行し外国のジャパンパッシングに同調するなど国益を考えない人々が大手を振って歩いている国から出ていくから冷や汗ものであり、一国の繁栄だけを願うものではなく、世界の平和と繁栄を願い、地球の保全と人類の進歩を考えるとき他国の事情を知り、理解することが大切である。
 どの民族にも歴史と伝統があり、風俗、習慣、言語が異なるも、それぞれその環境で英知を重ねて生活がなされているのである。
 海外での生活を通して今改めて「豊かさ」とは何なのかと考えさせられるのである。
 二カ年のパキスタンでの生活と歴史の歴史を書きとどめたのは、帰国した昭和三十五年(一九八八)の暮れである。その後、会社に勤務し昭和六三年(一九八八)定年退職しても農業の傍ら公務を持ち多忙のため原稿を死蔵していたが七五才を迎え老人の郷愁から整理をすることにした。
 日進月歩は世の常。すでに四〇年を経て、かってのパキスタンは印パ戦争のあと一九七二年一月東パキスタンはバングラデシュとして分離独立し今日に至っている。パキスタンに於いても首都が「カラチ」から「イスラマバード」に移り、パキスタンも近代国家として繁栄、進歩をしていることであろう。
 一九五九年「チッタゴン(東パ)」からカルカッタに入り領事館で聞いた「ダライラマ亡命」のビッグニュースも昨日のことのように思われ、カルカッタのハウラー駅からブツダガヤ、アグラ、デリー、アムリツアー(インド領)、ラホール(4パキスタン領)への汽車の旅もなつかしい。
  ボンベイ、マドラス、スリランカのコロンボやベラデニヤ等も、TVで報道を聞く度に現地での思い出が四〇年前にタイムスリップして、脳裏をかすめる昨今である。
      平成一二年三月
 高戸さんに御自宅へ招かれ、「インダスの流れ」を頂いたのは10年ほど前だが、昨年の暮れに読んだ。現在は90歳を超えているはずだが、機会があれば、又お会いしたい。

15年7月23日 木曜日 雨の夜明け
 今朝は3時半に起床。
 製図コーナーの再配置の為に一時間を投入しきょうの仕事の下準備を完了。そのあと、ユーチューブで西部と佐高の会談を聞いていた。このふたり、政治的立場の相当違う論客だけどそして言おうとすることはこむつかしいことなんだろうけれど、言葉にクッションがはさまれているようで、リラックスして聞ける。軽口の漫談調だ。
 ああいう偉い先生方であれ我々庶民であれ、大切なものは漫談調の会話ではないだろうか。

15年7月22日 水曜日 一行日記
 昨日の来訪者は6人。仕事の忙しい中、千客万来であせったが、誰であれ訪ねてきてくれる客人は大切にもてなさなければならないというのが私の信条なので、「忙中閑あり・閑中忙あり」を座右の銘とするしかないのであるが、世の中そんなもんだろう。
 ひえつき節を聴いていると涙が出そうになる。
 近場では山竹田の「千古の家」が落人伝説を持っているが、歌詞よりメロデイにうたれる。
 考えてみると、人類が言葉を持たない太古の昔から、どんな社会にも「酒」と「売春」とそして「音楽」があったのだ。

15年7月21日 火曜日 決意
 朝っぱらから「ユースの前で9条の会の辻立ちをやっているから来てくれ」との電話が入り行ったのだが、7時半現在で既に暑い。梅雨明けで当然なのだが、これからは猛暑の日々となるだろう。マヒした体なので人並みに動くことはもはや覚束ないが、できる限りなんでもやろう。
 それはともかく、今松本清張の「詩城の旅」を読んでいる。

15年7月20日 月曜日 さくじつは歩き疲れ
  水野忠邦は天保一三年六月に出版取締令を発布した。以下の内容である。
 ・儒書、仏書、神書、医書、歌書などは除く。
 ・異教妄説などを取り混ぜた作品や他人の批判などを書いたものは発行を禁止する。
 ・まじめな書物に権現様の御名前を出すのはさしつかえない。
 ・世上周知の事実はたとえ御一身のことでも除くにはおよばない。
 ・どんな書物も、今後新しく出版するものは必ず作者と版元の実名を奥書にのせること。
 ・役者、遊女、女芸者などの姿を一枚摺りにした錦絵や、役者の似顔や狂言の趣向を取り入れ、けばけばしい彩色をもちいた高価な絵草子類の発行と売買を禁止する。
 ・本は、忠孝貞節や勧善懲悪を主題にし、彩色を地味にしたものをつくるように。

 私が思うに、これはもう恐怖政治だ。「改革」の名を借りた表現の弾圧だ。柳亭種彦を友人に持つ金四郎が水野に抵抗するのも無理はない。しかし、水野の忠実なしもべが一人いた。「妖怪・鳥居 耀蔵」である。当然の事ながら金四郎と鳥居は反発し合い、その余波で柳亭種彦は割腹自殺する。
 政治権力の争いの元で死んでいった信念の人は、古来、数えきれないだろう。

 ところで、昨日は金津祭り中日(なかび)
 夕刻には、友人6人が集まり男女混合の大宴会。私には当番区の住人としての仕事があって丁寧な接待ができなかったけれども、来訪者には楽しんでいただけただろうか。
 

15年7月19日 日曜日 遠山の金さん
 明け方に童門冬二著「小説 遠山金四郎」を読み終えた。
 「この桜吹雪が目に入らぬか」の遠山の金さんは天保期の南町奉行で江戸庶民の味方・・くらいのテレビドラマ的知識しかなかったが、元無頼でありながら今は官僚機構に立つ遠山の虚実を調べ上げた結果が、同じく官僚(東京都で政策室長などを歴任)だった童門のこの小説で、私の知識が少し増した。

 天保十一年(一八四〇)に遠山金四郎は、老中首座・水野越前守忠邦から、江戸町奉行を拝命した。時の将軍は徳川家慶で享楽人生を送った家斉の実子。家慶と水野は江戸の町から享楽的雰囲気を一掃しようと画策した。いわゆる天保の改革である。この改革は先例の享保の改革(吉宗)、寛政の改革(松平定信)を範とするものであった。
 田沼意次時代の賄賂横行を激しく憎み、その元凶である重商政治を重農政治にひっくりかえそうとした。その過程で奉行役として白羽の矢を当てられたのが遠山金四郎だった。
 しかし遠山はただの官僚ではなかった。同じく官僚だった父親の御身大切主義・面従腹背主義(ま、公務員は程度の差はあってもそんなもんなんだろうが)を嫌って若い頃には無頼の世界に身を投じ、飲む打つ買うの常習者であった。かつ戯作者・柳亭種彦(旗本・高屋彦四朗)との交情もあり、これらで世間の息遣いをつかんでいた。
 水野は家康大権現がグランドデザインしたその昔にもどらなければならないと考えた。米経済の復活、武士としての質実剛健のための鍛錬、軟弱思想の一掃(三島由紀夫が太宰治を嫌ったのと似ている)、人情本や枕絵などの発禁を目指した。
 水野忠邦は天保一三年六月に出版取締令を発布した。以下の内容である。
 ・儒書、仏書、神書、医書、歌書などは除く。
 ・異教妄説などを取り混ぜた作品や他人の批判などを書いたものは発行を禁止する。
 ・まじめな書物に権現様の御名前を出すのはさしつかえない。
 ・世上周知の事実はたとえ御一身のことでも除くにはおよばない。
 ・どんな書物も、今後新しく出版するものは必ず作者と版元の実名を奥書にのせること。
 ・役者、遊女、女芸者などの姿を一枚摺りにした錦絵や、役者の似顔や狂言の趣向を取り入れ、けばけばしい彩色をもちいた高価な絵草子類の発行と売買を禁止する。
 ・本は、忠孝貞節や勧善懲悪を主題にし、彩色を地味にしたものをつくるように。

15年7月18日 土曜日 忙しくなりそうな週末
 昨晩、某長老議員が缶ビールを携えて突然の来訪。
 話の内容は、今回のあわら市議会議長副議長選委員長選。議会にも国会、県会、市会で規模やレベルに差があるのは勿論だが、裏話があることについては共通している。退屈しない二時間を送らせていただいた。
 それはともかく
 本日の福井新聞に記事見出しに「ネパール地震 写真で訴え 篠原さん(坂井)きょうから展示」がある。
 30年ほど前に知り合った時から彼はインド行きをくり返していた。私を手話の世界に引き入れたのも彼だったし、私が妻と知り合ったのもそれが縁だった。なつかしい。
 

15年7月17日 金曜日 なかなか眠れない           
 
 日本で人気のあるスポーツといえば野球で野球といえば阪神タイガースで阪神といえば江夏豊で江夏といえば「江夏の21球」を書いた山際淳司で、早世した山際が惜しまれる。
 高校野球であれ日本プロ野球であれアメリカプロ野球であれ、TVで野球の試合を見ている時だけ心が和らぐのは昔からの私の癖で、何故なら考えなくていいからだ。シンプル イズ ベストなのである。
 というようなことはさておき 
 安保関連法案を自民公明の数の力で衆院通過を図った安倍首相の底意がどうしても理解できない。アメリカ・オバマ政権の要請という面が強くあるにしても国民の民意とかけはなれた姿勢でのごり押しなのだから、政権の支持率が急降下するのは避けられないだろう。解散総選挙しかないのではないか。
 くわえて新国立競技場建設問題が揺れていて、昨日、「安倍首相が案の見直しを図る」という報道が走ったが、これには支持率降下を少しでもくいとめるというねらいがある。
 コンペの審査委員長を務めた安藤忠雄の記者会見をTVで見てそのよくわからない答弁に困惑を覚えた。彼の作品はいくつも見に行ったし、講演会も確か二回行って要するに彼を愛するファンなのだが、なんであんな流線型を押したのかわからない。敢言するなら環境破壊ではないか。日本の場合、建築を含めたモノのデザインの源流は室町期にあるのだから、昔に戻るべきだ。
 ということはさておき
 きょうの午前11時、何故か台風が迫りくる日本海の浜に立っている。
 
 まるで冬の日本海だ。
 奥底の しれぬ寒さや 海の音. 歌川



15年7月16日 木曜日 無題           
 
 「第三節 天爵大神
 天爵大神は、温泉開場のころに欠くことのできない人物である。この人の本名は水谷忠厚といい名古屋市城東の万石付近に住んでいた元の尾張藩士で百石持ちであったらしい。廃藩後、商業をしたが不振で、車引きになって陶器を運ぶのを生計としたという。ところが車でゆくところに、登降約二キロの急坂があったので、この坂を修理することにした。年三六才のときである。
 この工事は人の心を動かし、多くの人が協力して完成した。
 やがて彼は、橋をかけようとして大債を負い、義捐金をつのることにし、ある日軍隊へ行き隊長に義捐を依頼した。隊長は趣旨はわかるが、隊規があるのでと丁寧にことわった。たまたまその隊長が軍隊を引率して行軍しこの橋を渡ることになったところ、彼は橋を渡ることを拒絶したのである。そこで隊長はやむなく五〇〇金の義捐を約してやっと通ることができたという。
 またある日、山田内務卿(後の内務大臣)が工事現場を通られたところ、モッコ一荷を願いでた。卿は心よく一荷を運ばれたという。それより山田卿に愛され、ついで徳大寺侯爵よりその篤行が、明治天皇の御元にも達せられて、一躍その名が天下に知れわたった。有栖川宮熾仁親王もことの外、氏を愛されて「天爵大神」の号を賜った。
 宮は彼に「天爵大神とは人爵に対するもので、人爵には公、候、伯、子、男と五爵あるが、汝の行為はそれにまさるものであり、人爵に対して天爵をあたえる」といって、この神号をさずけたといい、彼の面目躍如たるものがある。
 彼が卜一楼や灰屋にいたころは、朝夕読経し信者には仏に供えた水をあたえ、その水をもらったものは病気がなおったという。このように彼の行動はどのような人をも動かし難工事をなしとげていったが、明治二五年の四月五日に五十一才で没している。墓所は岡崎市の政秀寺にあり、戒名は「榮松院天爵仏母上座」と彫られている。二面温泉の浄泉寺には当時、天爵大神使用の旗が残っているし、その他の品も所蔵されている。
 また、二面温泉区に「歳徳神」と書かれた掛軸も残っていて、彼をしのぶことができる。」
 きょうは早朝から設計事務所を二件訪ね、あわら市庁舎へ二回行き、帰途、保健所をまわった。運転の途中に平面作成依頼の携帯コールも入ってきた。いまから吉崎へ行かなくてはならない。こういう日々の私を、ひとは「仕事の鬼」と呼ぶのだろう。

15年7月15日 水曜日 再び天爵大神について            
 夜明けがやってきた。
 先ほどまでYOUTUBEで池上彰の「現代史講義・ベトナム戦争と日本」を見ていたのだが、画面で彼は「学校で教える歴史は太平洋戦争までなので、新聞記事の内容を正確に把握することがなかなむつかしい・・」と言っていた。

 これは全く同感だ。
 20年ほど前、金中のPTA会長をやっていた時、歴史の教師に「なんで授業で現代史を教えないのですか?」と、聞いたところ、「年間の単位数が制約されていておっつかないんです」との答えが返ってきた。
 「それならば、授業を現代史から始めて過去へ過去へとさかのぼっていけばいいんじゃないですか?」と言ったら、「戦後を語ろうとすると、歴史的な事件に対する評価が定型となっていないので・・」との答えだった。

 要するに、古代、中世、近世あたりまでならば、定型をしゃべればそれですむということなのだが、だからと言って現代史に触れないのはおかしい。定型化されていないものに関して教師が自分の思いをしゃべるのが義務教育の逸脱となるのであれば、寺子屋教育の復活が望ましいと、私は思う。
 それはさておき
 昨日、教育委員会に行った折、社会教育課課長から、下の資料をいただいた。

 「第三節 天爵大神
 天爵大神は、温泉開場のころに欠くことのできない人物である。この人の本名は水谷忠厚といい名古屋市城東の万石付近に住んでいた元の尾張藩士で百石持ちであったらしい。廃藩後、商業をしたが不振で、車引きになって陶器を運ぶのを生計としたという。ところが車でゆくところに、登降約二キロの急坂があったので、この坂を修理することにした。年三六才のときである。
 この工事は人の心を動かし、多くの人が協力して完成した。
 やがて彼は、橋をかけようとして大債を負い、義捐金をつのることにし、ある日軍隊へ行き隊長に義捐を依頼した。隊長は趣旨はわかるが、隊規があるのでと丁寧にことわった。たまたまその隊長が軍隊を引率して行軍しこの橋を渡ることになったところ、彼は橋を渡ることを拒絶したのである。そこで隊長はやむなく五〇〇金の義捐を約してやっと通ることができたという。
 またある日、山田内務卿(後の内務大臣)が工事現場を通られたところ、モッコ一荷を願いでた。卿は心よく一荷を運ばれたという。それより山田卿に愛され、ついで徳大寺侯爵よりその篤行が、明治天皇の御元にも達せられて、一躍その名が天下に知れわたった。有栖川宮熾仁親王もことの外、氏を愛されて「天爵大神」の号を賜った。


15年7月14日 火曜日 モーツルト交響楽第40番第1楽章を聴きながら             
 この一週間ほどの間に体に異変が生じた。
 酒をコップ一杯飲むと、それ以上は飲みたくなくなった。煙草(モク)を美味しいとは思わなくなった。手帳に文字を書き入れることができるようになってきた。歩行の際のもどかしさはあいかわらずだが、痛みが消えた。女性にもてたいとは思わなくなった。

 脳内出血で倒れて以来、体の不自由さを忘れさせるものが酒・煙草であるという信念のもとに刺激物の接取に励んできた日々が嘘のように思える。
 などと思っていた今朝の11時、推定年齢70数歳のNさんが、「沖縄泡盛古酒(43度)・まさひろ」を持ってやって来た。
 
 現自民党政権の暴走についての憤慨語りを終えたNさんが帰ったのち、早速、氷を入れて口に含んだ。
 さすが43度だ、喉元の刺激が45年前の沖永良部島時代の私の生活を走馬灯のようによみがえらせる。
 南十字星が見える島のサンゴ礁に出て、赤ら顔の恐ろしい顔をした漁師と毎晩泡盛を飲み交わしていた。つまみはいつも生きている蛸だった。
 「わしはなあ、若い頃、喧嘩ばかりしていた。殺した男がふたりいる。刑務所に拘束されすさんだ日々を送るわしの心に光を与えてくださったのは池田大作先生だった」が彼の口ぐせだった。
 創価学会には興味がないが、死ぬまでに、もう一度沖永良部島を訪問したい。
 

15年7月13日 月曜日 新しい週の始まり             
 本を読みながら阪神が巨人に快勝するのを横目で見ながらCADに精出すというのが昨日の私だったが、夜に帰宅した妻が缶ビールを一本だしてくれたのが大変ありがたかった。
 宮本輝の「泥の河」・「螢川」・「星々の悲しみ」を20年ぶりに再読して、ぼおっとしている。・・というか、前回感じた著者の人間観察の仕方が改めて五臓六腑のより深みに沁み込んだ気分で、強く印象に残った本は、どんどん再読していきたい。

 「螢川」のエンデイング
 ・・道はさらにのぼり、田に敷かれた水がはるか足下で月光を弾いている。川の音も遠くなり懐中電灯に照らされた部分と人家の灯以外、何も見えなかった。
 せせらぎの響きが左側からだんだん近づいてきて、それにそって道も左手に曲がっていた。その道を曲がりきり、月光が弾け散る川面を眼下に見た瞬間、四人は声もたてずその場に金縛りになった。まだ五百歩も歩いていなかった。何万何十万もの螢火が、川のふちでうねっていた。そしてそれは、四人がそれぞれの心に描いていた華麗なおとぎ絵ではなかったのである。
 螢の大群は、滝壺の底に寂寞(せきばく)と舞う微生物の(しかばね)のように、はかりしれない沈黙と死臭を孕んで光の(おり)と化し、天空へ天空へと光彩をぼかしながら冷たい火の粉状になって舞いあがっていた。・・
 それはさておき
 絵心のない私が魅かれる絵画ベストスリーのうちのひとつがムンク・叫び

 
 この絵を初めて見たのは、神戸市長田区の某クラシックバレー団の階段踊り場だった。
 その頃の私はクラシックバレーの練習に夢中だった。

15年7月12日 日曜日 無題             
 昨日は土曜日だったので、「仕事の鬼の日々」から「酒と薔薇と書見の日」に変身。
 20年ほど前に読んだ宮本輝の短編「幻の光」を再読していた。
 
 「・・きのう、私は三十二歳になりました。兵庫県の尼崎から、この奥能登の曽々木という海辺の町に嫁いできて丸三年が過ぎたから、あんたと死に別れて、かれこれ七年にもなるんです。
 こうやって二階の窓ぎわに座り込んで、暖かい春のお日さん浴びながら、凪いでいる海と仕事に出て行くあの人の車の、もう豆粒ほどになって曲がりくねった海岸べりの道に遠ざかっていくのんを見てると、なんや体が蕾に戻るみたいに、ぎしぎしとすぼんでいく気がします。・・」が冒頭で
 それはともかく
 仲仕組合総会創立総会乃碑・裏面には名簿が彫られています。勿論、すべての方は故人なのですが、子孫の方々が現世を生きているはずで、その方々からお話を伺いたい。このブログをご覧の方で心当たりがございましたら、とんぼ作品編集局(090-1635-5710)に、是非御一報をお願い致します。

仲仕組合総会創立総会乃碑・裏面
★設立員 8名
・長岡太助
・岡田清五郎
・小幡利吉
・中山三太郎
・保原利左エ門
・坂森八三郎 
・野中仁吉
・稲田與作
★発起人六名
・森和四朗
・笹岡栄吉 
・本多宗太郎
・稲田三吉
・端宗太郎 
・雨谷栄吉

・青木真次郎 
・水野石太郎 
・八木仙太郎 
・新用谷初蔵
・保原石太郎
・水上久四郎
・籠島継太郎
・野田彦太郎 
・勝木辰五郎
・岡田石太郎
・中村仁吉
・川道●吉
・紺井岩●
・稲田與吉 
・杉本初蔵
・國本駒吉
・中山善太郎
・蔦津弥吉
・小幡捨吉
・稲田伊七
・牧野源太郎
・谷川代太郎
・堂下金之助
・坂●吉太郎
・中山吉松
・渡辺末吉
・坂戸圭二朗 
・岡田幸太郎
・●●●●
・永岡継太郎
・兼定藤吉 
・吉田太作
・炭田種吉
・大渕利三吉
・三輪長蔵
・野中茂右朗
・丸井三五朗
・米沢市蔵
・栗山寅吉
・中●与三五朗
・角初五郎
・塚本林●
・米沢弥●朗
・川林三吉
・石田金之助
・富久太郎
・●●●●
・秋田弥三吉
・野坂●●●
・稲田●●
・野沢大吉
・稲田亀松 
★側面
・長谷川吉郎
・中村與三郎
・端藤吉
・斉藤助七
・他四名(判読不能)
★反対側側面
・建碑地所寄附者 林津根治朗 殿


2015年7月11日 土曜日 無題             
 昨晩、とんぼさんが手料理を携えて登場。チリ産・北海道産の高級ワインを飲みながら、昭和の料理についての薀蓄を伺っていたのだが、その際に 解読石碑 についてのデーターを手渡されたのでアップしました。

 以下「声の広場NO589」をここに貼りつけました。
589.「仲仕組創立紀念之碑」全文解読完了。 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/7/11(土) 11:0
「仲仕組創立紀念之碑」の全文解読を終えました。明治34年(1901)建立であり、114年が経過しております。凝灰岩の石碑は風化が著しく、加えて鐫(ほり)が浅いため碑文文字の多くが判読困難で欠落部分も少なからずあります。

 さらに漢文であり、知識のない私には難題がニ重、三重、それ以上に課せられました。漢語林で一字々を調べながらようやく全文解読に至りました。欠落部分は前後の文章との絡みで推測文を加えました。

 今回の解読は大意で大きく外れることはないと確信していますが、細部では別な解釈も発生する可能性もあると思います。

 その意味で現解読が叩き台となれば幸いです。

 碑文から当時の世相(鉄道の効用と期待 殖産興業の奨励 報国意識の高揚 国民団結)が伺えます。

 「金津の夜明け・・・北陸線開通」金津の交通史を知る上で貴重な文献ですが、碑文は当時の日本が目指したものが刻まれており、こちらも興味をそそられます。

「声の広場」では文字数の制限がありますので近々牧田さんのブログで公表します。 興味のある方一読ください。

 とりあえず難関を突破した満足感に浸っております。
次の課題は「金津の夜明け・・・」を資料として残す作業に入ります。こちらは牧田さんを中心に金津町興しに熱意のある方々でチームを組んでいただければと思っております。。
 参加していただける方、牧田さんに申し出てください。金津の貴重な歴史資料に多くの方が名を連ねることを期待しております。

15年7月10日 金曜日 プロ野球は阪神サヨナラ MLBは田中好投             
 最近の私は同世代以下との接触が全くなくなった(イクセプト女性)。

 昨日も80過ぎの地域老人からじっくりと話を聞いていたのだがそうするのも、多分、人生経験の長い人から生活の知恵を学ぶのが我々若い者の義務であうような気がするからだ。
 昔はあそこの角に風呂屋があった、対面は鍛冶屋だった云々を聞いていると昭和の30年代がよみがえってくる。確かにあの頃が私にとってのゴールデンエージだった。
 林淳著「天爵大臣 福井をゆく」から抜粋
 天爵大臣水谷忠厚は、天保12年尾張藩士の子として生まれ、明治20年に来福した。
 41ページから「吉崎道の開墾」のことが書いてある。
 ・・
吉崎道は現在のあわら市細呂木と同市吉崎を途中で細呂木峠へ向かう旧北陸道と別れる。その分岐点からほんの十メートルほど進むと、水谷が関わった多くの道路工事箇所の中で最も有名であろう「鴫谷山の切通し」がある。ここは現在も未舗装のままであり、非常によい雰囲気を楽しむことができる。吉崎道はここから北へ山中を抜け、県道29号線へ合流する。

 細呂木村史によると、明治二十年十二月の寒い日に「(水谷は)白いさっくりを着て大きな笠をかぶり、見事な馬に乗って」細呂木の上坂家に現れたという。「さっくり」は裂織(さきおり)のことで、古くなった布を細かく 裂いて麻糸などと共に織り上げた再生衣料である。また、「見事な馬」は福井県議会史第一巻などで紹介されている、石黒福井県知事が貸し与えたという馬だろう。水谷が馬に乗ってやってきたという話は清水町史下巻にある上天下坂尻での工事の記述中にも確認できる。


15年7月9日 木曜日 無題             
 
 本日は芦原中で手話講習です。
 それはともかく港町ブルース.。
 

 15年7月8日 水曜日 きょうはCAD三昧             
 
 金津祭りが近づいてきた。今年の山車は源義経(坂ノ下区)、平敦盛(新区)、鏡獅子(中央区)。

 源義経と言えば思い出すのが、平家物語「吹上の段」。
 壇ノ浦で平家一門を海の底に沈め、意気揚々と京に凱旋した源義経を待っていたのは老獪な後白河法皇の籠絡作戦で、これにはまりこんだ義経は兄の総帥・源頼朝によって戦犯に指名されてしまった。義経は武蔵坊弁慶らと共に京を脱出し、一路北陸街道を平泉目指して進むのであるが、字「吹上の谷」(参・小字一覧NO48)附近で、加賀の侍・井上左衛門一行20人がやってくる。
 義経は「やばい!」と思って顔を下向きにし菅笠を深々とかぶるのであるが、すれ違いざま、谷底からいちじんの強い風が吹き上げ、面が割れてしまうのだ。
 ところが、井上左衛門は「これはこれは義経殿・・御無事で平泉までお逃げなされ」と囁きつつ去って行ったのである。捕縛して頼朝にさしだせば莫大な懸賞金をもらえたはずなのに、そうしなかったのである。
 去っていく井上一行に手を合わした義経は「井上殿・・七代にわたって弓馬の道に栄えあれ」と祈るのであった。
 それはともかく
 図書館から「依頼された本が入ってきました」との電話あり。
 本日の酒のツマミ決定です。

 2015/07/07 (火) 文部省唱歌を聴きながら              
 七夕である。織姫と彦星が一年に一度だけ会える特別な日なのである。
 それはともかく
 出久根達郎著「御書物同心日記 虫姫」を読み終えた。主人公・東雲(しののめ)丈太郎は江戸城内紅葉山文庫(将軍家の蔵書)の御書物方同心である。

 以前から出久根の柔らかくて闊達な文体に惹かれていたが、特にこの物語は古本屋の主人だった彼にしか書けないと物語だと思った。江戸期町人の人情がいいタッチで描かれていて、現代の窮屈さと比較してなんと違うことか。

 

 2015/07/06 (月) 新しい週の始まり              
五音をまじえた音楽は人の耳をだめにする
五味をまじえた料理は人の味覚をそこなう
乗馬や狩猟の歓楽は人の心を狂わせる
手に入りにくい珍品は人の行動を誤まらせる
           孝子様はそうおっしゃっているのよ」と、中国古典好き・Sさんは私に語ったが、これは私にとっていかにも真理である。要するに「シンプル イズ ザベスト」なのである。
 早朝から来訪者がたてつづけに二人あって、そのあとはCADに専念。さすがに疲れて、午後は議会事務局に顔を出した。そこにいたのが名物長老市議のSさんで、彼の市民の間での評判はいまひとつだが、私は、彼が少年のようなココロを持った人だと思う。

 
 2015/07/05 (日) 忙中暇有り
 昨晩は、6時半から「喫茶・言のは」で、「四角佳子と常富嘉男ライブ」コンサート。
 
 こじんまりとした店は30人で満杯。
 四角佳子は吉田拓郎の最初の嫁はんだ。、その次が浅田美代子で現在は森下愛子。もてる男がうらやましい。
 六文銭'09メンバーの四角が最後に歌ったのが、上條恒彦によって有名になった「出発の歌」。その時は聴衆全員の大合唱となった。私は、四十数年前にタイムスリップしていた。
 明けて、今朝は6時から坂ノ下八幡神社境内で草むしり。

 境内の石碑を眺めているうち、二つの新事実を発見して嬉しかった。

 2015/07/04 (土) 深夜にジャズを聴きながら
 最近出会ったひとたちから、「すごく痩せたね」と、よく言われる。先日は、主治医にも、「前は腹がでぶっとしていたがそのふくらみが全くなくなりすっきりとした。若々しく見える。筋力トレーニングをしているんか」と言われたが、健康志向患者ではない私はそんなことをしていない。

 ただ、思い当たる節はある。
 議員時代には何かと言うと集まって無茶飲みをしたが、それから解放され飲みたいひとたちとだけ飲むようになったこと。当然酒量は落ちた。
 節煙を志しているわけではないが、仕事が忙しくなってきて、煙草を喫う時間がもったいなくなり、結果として本数が減った。付け加えて言うならば、煙草が値上がりしたので昔からある安煙草「若葉」に鞍替えしたら、これがまずいことも本数の減った原因となっている。
 きょうの午前中、稲田信夫氏から「仲仕組合創立総会乃碑」裏面についての話を熱心に聞く我々三人。
 

 2015/07/03 (金) CAD進捗中

 攻められながらも相手選手のオウンゴールで勝った昨日のなでしこvs英。
 試合終了直後のなでしこ選手ひとりひとりの歓喜の表情もさることながら、泣き崩れるオウンゴール選手を抱きとめる英監督のシーンに胸を打たれた。
 それはともかく
 このところ、新田次郎著「武田信玄」や堺屋太一著「天と地と(信長と光秀)」など戦国武将ものばかりを読んでいたが、昨晩から田辺聖子著「私本 イソップ物語」を読み始めた。強飯(こわめし)をお粥に代えたようなほのぼの気分。

 2015/07/02 (木) 漆黒の闇の中で

闇は常にアナーキーである
闇は一切の綱領を認めないし
一切の様式を超脱する   「筑豊むらさき小唄」     寺山修司
 ところで
 本日の福井新聞に天爵大臣のことが出ている。

 天爵大臣が開鑿した道と言われているこの切通し(下写真)を

 私は秘かに金津三大風景(三番目)と呼んでいる。見に行くのは初冬がいい。白く薄化粧した崖面に一輪の寒椿が咲いている。

2015/07/01 (水) 梅雨まっさかり
 ウイスキーを飲んでいる 昨晩の私のところを訪れた稲田氏からの情報で、「仲仕組合創立総会之碑(明治34年建立)」の裏面に書かれている人たちの詳細が詳らかになる可能性がでてきた。
 私の酩酊アタマでは、既にメモ記載が不可能となっていたので、とんぼさんに電話をかけて変わってもらった。
 以下、「声の広場」から転載。
588.「仲仕組結成」の歴史的意義。 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/6/30(火) 23:6
 石碑の裏面に仲仕組結成に関わった人たちの交名(こうみょう・・人名の列記)があります。その中に稲田與作(設立員)、稲田三●(発起人)、稲田與吉、、稲田伊七、稲田●●、稲田亀松の名が見えます。稲田一族が仲仕組結成に大きな役割を果たしたと思われます。

 その子孫である、稲田喜久郎氏から貴重な情報を提供していただきました。稲田一族は馬数十頭を所有し運送業を営んでいました。いわゆるば馬借問屋です。馬借問屋は自ら運送業を営みましたが、馬借(彼等の多くは馬を所有していなかった)に馬を貸し出していました。おそらく稲田一族は金津の陸上運輸(輓馬・・ばんば)に携わるかたわら、伝馬、助郷の重要な役割を担っていたのでしょう。

 江戸時代、情報伝達は伝馬制によって、参勤交代の馬、人足の調達は助郷制によってなされてきました。交通の要所である宿には伝馬、助郷制度の整備義務があったのです。

 北陸道の主要宿である金津にも伝馬、助郷制度があり、それを支えていたのが馬借問屋でした。

 明治に入り、伝馬、助郷制度は廃止されましたが、政府はそっくりそのまま、その組織を陸運会社に移行させ営業させました(明治5年)。

 陸運会社は解消され明治8年内国通運会社が誕生するのですが、この会社がそれ以降の日本の物流を支配することになります(昭和12年日本通運に改称)。

 鉄道駅開業に伴い、明治政府は各駅に運送会社を設立させ、内国通運会社の傘下に組み込みました。これにより物流の全国ネットが完成したのです。

 仲仕組創立はその目的が、河川運送衰退による仲仕の救済策、あるいは彼等が鉄道荷役を担ったという意味だけではなく、(国内を網羅する物流網の完成という)国策に基づき金津駅に地域(坂井郡)の物流拠点を立ち上げることにあった、そこに込められた金津の発展を願う人々の存在に意義があるのです。

 碑文にもそのことが記されています。たんなる一地方の石碑という意味だけではなく、明治期の交通物流史を知る上で希な史跡ともいえます。

 今回、河川運送と真逆の(馬借問屋であった)稲田一族が仲仕組結成の中心メンバーであったことから仲仕組結成の目的が明らかにされたのですが、他の設立メンバーを探ることにより新たな発見の可能性もあります。

 ご先祖の名前がありましたら一報ください。(牧田氏まで)