2013年03月②

① 1日ー10日  ②11日ー20日  ③21日ー31日
 
2013/03/19 (火) 無題


昨日の午後は、議会活性化特別委員会が開かれた。3月議会終了を受けて4月に開催する予定の「議会報告会」(この報告会は今回が3回目)の開催日や開催場所についての打合せである。詳細は4月に市内全世帯に配布される「議会だより」に載ったり、各地区の回覧板に貼り付けたりする予定なので是非御覧ください。


2013/03/18 (月) 本日は議会活性化特別委員会


昨日の昼に、元町議のA氏が来訪。近日中に開かれる「旧金津町まちうち市議5人と区長OB連の語る会」の進め方についての打合せとなった。打合せ終了後は回顧談。


「金津町が金津町であった頃は、尊敬に値する郷土史家の何人かが存命だった。しかしいまや彼らの殆どは草葉の陰だ。我々は先輩たちに続く語り部を発掘しなくてはならない。女にうつつをぬかすことのない清廉潔白な人材を発掘しなくてはならない」ということで話がまとまった。


2013/03/17 (日) フライドポテトを食べながら


市議選が近づいてきたためか最近の事務所来訪者たちからは、今回の選挙の動向についてよく聞かれます。「あわら市にとって誰に入れるのが一番いいのだろうか」という種類の質問ですが、去り行く私としては固有名詞についてはさらさら興味がなくつまり誰でもいいのですが、ただ、ふるさとの歴史についての知見を持っているひとがひとりぐらいは当選してほしいというのが、敢えて言えば私の願いです。


ということで昨日は三国龍翔館へ「三国の遊女俳人・歌川」の話を聴きに行きました。歌川の代表作「おく底の しれぬ寒さや 海の音」からは、鉛色の空を持つ冬の日本海の海鳴りが聴こえてきますが、夜の宿で按摩されている時の歌川が海の音にいいしれぬ寂寥感を感じたのがこの句につながりました。


売春防止法の成立で遊女はいなくなってしまいますが、近世の遊女には「身をひさぐ性的存在」という蔑まされる側面と「神事につながる聖的存在」という崇められる側面という二面性つまり性聖一致があったようです。


ただし、私がこの句にうたれるのは、文芸的に抽象化されたレベルのものではなく、個人的な体験を通して、愛する人との永遠の別れからくる胸の引き裂かれを沈静化させる力となっているからのように思えます。


参考:金津遊女の墓・青楼無縁塚


姫川の 俤ゆかし 枯柳 
 




宿場小女郎が旅人の袖をひいた遊里は、竹田川を挟んだ長さ1キロ余りの町の川北、北金津町といわれた宿場集落にあった。金津傾村鏡によると、安永2年当時、 北金津は、戸数411、人数1394、(男728・女666)。遊女が61名も居たのだから、女性の数が多いのかと思ったら逆に52名少ない・・・。
遊里はその北金津町の三丈山を取り巻いている旧八日町一帯にあった。金津町郷土資料は次のように記している。
「当時稲荷山の地には二十余軒の妓楼が軒を連ね、数十名の娼婦が居って我先にと客をよんだ。したがって階上階下の別なく、三弦の音、太鼓のひびきやかましく稲荷山にこだましていたという・・・ (津谷博子)
「宿場史跡 金津町坂ノ下」金津町教育委員会 より


2013/03/16 (土) もう週末か

昨日は金津幼稚園卒園式・金津小学校卒業式。





きょうの午後は、三国龍翔館に於いて、「三国港の女流俳人ーその時代と周辺」の講演を聴いた。



講師の久保氏が「金子兜太は、隣国・加賀の千代女よりも越前・歌川のほうが俳人としては数段上と評価している」と言ったのにはちょっと驚いた。


そこで、龍翔館からの帰りに歌川ゆかりの妙海寺へ行き、句碑の前でポーズをとった。





おく底の しれぬ寒さや 海の音  歌川


2013/03/15 (金) 本日は幼稚園卒園式・小学校卒業式


あと3週間もすりゃ、ここらあたりの桜も満開となる。


「桜の樹の下には屍体が埋まっている!これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。」と書いた小説家がいる。


ところで、僕にとって一番美しかった桜は、20年ほど前。
旧金津町の保育士さんたちを含めた男女8人でワンボックスカーに乗って奈良へ行ったのだが、ハンドルを握らなかった僕は、行きも帰りもボトルウイスキーを飲み続けしゃべり続けていた。


桜並木に囲まれた旅館に一泊した。夜が明けて朝陽が差し込んできた時、窓外から目に入った光景はまさに
敷島の 大和心を人問はば 
        朝日に匂ふ 山桜花 
本居宣長   だった。


2013/03/14 (木) 昨日の一日

昨日の朝は、「総務文教常任委員会」を傍聴。午後は事務所に戻って、「所得税確定申告書」作製に専念、夕刻にようやく書き上げた。


書き上げるのと同時に、来訪者あり。そのひととの話のテーマは「杉田鶉山」。そもそも僕は7年前まで杉田のことは全く知らなかった。


あわら市が「中学校2校維持or統合」問題で騒がしくなった頃、我々2校派議員が温泉街にある杉田の旧別荘を密談の場所として何度か使用したことから、初めてその名前を知った。


その後数年を経て、「ふるさと語ろう会」が鶉公民館館長に「鶉山伝」を講演してもらったり、波寄の生家跡を訪ねたり、県立図書館・文書館で学者の話を聞いたりしているうちに興味が拡がっていた。


来訪者から「偉人と呼ばれるひとでも内実は凡人以下の部分があるのね」と言われたが、僕はうなづきつつ「偉人と呼ばれる程度に見合うだけのバカな部分を併せ持つのが人間というものではないか。つまりすべての人間はプラスマイナスゼロなのだ」と、心で答えた。


夜になったが、鬱気分のせいかなかなか寝付かれない。そこで午前1時頃にDVD:「悪魔が来りて笛を吹く」を見始めた。全てそうだが、横溝正史原作のものはストーリーもBGMもおどろおどろしい。
鬱気分に加えて恐怖感まで出てきたのでスイッチをオフにして布団にもぐりこんだ。やっぱり寝付かれない。そして、寝付かれないうちに朝が来た。


2013/03/13 (水) もう中旬か


3.11東日本大震災で被災し家族を失った人たちの手記のなかに、「わたしは3月11日に死にました」というのがあった。これは肉体的には生きているけれども魂はぬけがらとなっていることの謂である。そしてその手記のスタンスは、「再興にむかってのサポートを!」といった日本国民全体の合言葉に背を向けているものだ。


大震災での被災ではないけれども、同種の経験をもってしまった何人ものひとから、ここ数年間話を聞いてきたが、表面的な立ち居振る舞いとは別に、心の底部に共通に巣食った思いであることを実感した。


2013/03/12 (火) 卒業式


世の中には親切な人がいるもんだ。きょうは気持ちのいい朝を迎えています。
きょうの午前中は金津中学校の卒業式。
僕が金津中学校PTA会長として挨拶した時から16年間が経過している。式は金津中学校校歌斉唱で終わったが、校歌の作詞者・山口喜三太氏は僕と妻との結婚式の仲人をしてくださった方だ。その山口氏も既にこの世にはいない。あの世へ行ったら会える人が沢山いるのだと、僕は思った。





市議として出席する最後の卒業式だと思うと、ちょっと感傷的。
夕刻、白ワインを買いにコンビニに寄った時、レジ係りの女性が、「今日の卒業式ご苦労様でした。保護者席から見つめていました」と唐突に言う。


僕は金津幼稚園、金津小学校、金津中学校のPTA会長を歴任したが、幼稚園時代のお母さん達がいかにも若妻といった感じで挨拶のマイクを持っていても一番楽しかった。


けれども、きょう話しかけてきた女(ひと)には、年相応の色気があった。


昔の話で、このブログを御覧の皆さんは信じないかもしれないが、議員来賓席に座っていると、幼稚園あるいは小学校の卒業式の時、「わたし、保護者席の前から〇番目に座っているわ、こっち見てね」という複数のメールが入ってきて困ったよ(笑)。


2013/03/11 (月) 講演「北陸線金津ルート決定と仲士組創立之碑建立への流れ


昨日の午後は、三国図書館・大会議室へ行った。
Hさんが講師となっての「北陸線金津ルート決定と仲士組創立之碑建立への流れ」の講演を聴くためである。「仲士組創立之碑」に関しては、昨年5月に福井新聞に載った「福井世間遺産」でちょっと関係しているので、僕も氏の講義が始まる前にマイクをもってしばらくの間挨拶。


そしてH氏の印象深い講演が始まった。氏が我々受講者に配布した資料は、明治期の「候文」である。


 資料 1  石碑写真   
  2   東北鉄道会社創立願  明治14年8月8日
  3   北陸鉄道会社創立願  明治21年6月30日
  4   北陸鉄道会社企業目論見書  同上
  5   北陸鉄道敷設追願書  明治22年12月2日
   北陸線敷設に関する鉄道会議議事録  
   北陸鉄道線維持同盟会書簡  明治27年3月20日
   北陸鉄道既定路線維持願  明治27年

H氏は、明治期の難解な「候文」を平易な現代文に翻訳しつつ、諄々と解説した。





①明治14年というと、西南戦争が終わってまだ4年。明治中央政府の多額の軍事出費による疲弊が「北陸線金津ルート決定」の大きな要因となっていたことがわかる。
願人のなかに、加賀前田家15代藩主・華族前田利嗣や越前松平家16代藩主・華族松平慶永(春嶽)らの名があるのには驚いた。だって春嶽は幕末四賢候の一人と謳われたのだから、この時期にはとっくに死んでいたと僕は思っていた。


⑥中央政府が既に金津ルートを決定していたのにも関らず、三国は北陸線を迂回させて三国港にひっぱってこようと画策。その思いを時の経済界の大立者・渋沢栄一に託す。しかし路線配置の立案者・松本荘一郎(米国に留学、土木工学を学ぶ。鉄道庁長官、逓信省鉄道局長鉄道局長官等を歴任。その間、各地の鉄道付設の調査にあたる)は技術者としての信念から反論。
また、陸海軍はせまりくる日清戦争を想定しての鉄道線路防衛の見地からも、金津ルートを主張。・・・エトセトラ。


講演が終わってから、三人で三国町内の焙煎珈琲・喫茶店へ。Hさんの話はそこでも延々と続くのだった。