2013年03月③

① 1日ー10日  ②11日ー20日  ③21日ー31日

2013/03/31 (日) 自堕落な日曜日

津島裕子が震災について語る(新聞記事)


セシウム137といった放射性物質の名前や単位、半減期なんてものを知っている国民は、世界中で日本人だけでしょう。それ自体が悲しいことです。原子炉の仕組みや電力会社の傲慢さも、悲しいことに知ってしまった。今までいかに無知だったか、じくじたる思いを抱えています。
東京電力福島第1原発が事故を起こしてから、私なりに勉強して、政府などの対応を見れば見るほど、これは世界史に刻まれる大事件だと感じています。広島と長崎に原爆が落とされ、「第五福竜丸」が被ばくし、茨城県東海村では臨界事故が起きた。米国との関係は、戦争責任が未処理なまま、核の「平和利用」へと姿を変えて続いた。私自身が、敗戦後の時間の流れをきちんとたどり直さなくてはいけないと思った。
それで戦後、米兵と日本の女性の間に生まれた混血孤児たちの物語を「ヤマネコ・ドーム」(「群像」1月号)という小説で書きました。
物語では、外国にいたかっての孤児が原発事故の後、成田に到着して「放射能の煮こごりの世界」を恐れます。けれど入国するとおびえが薄れ、人間の五感では何も感じられない放射能汚染のグロテクスさに思い至ります。
私たちは今、こういう状況となったからには、原子力産業をやめようと言う資格がある。去年の夏、首相官邸前のデモが盛り上がって、日本の社会が変わるかなという楽観的な思いを持った。でも参院選がああいう結果になって・・・。安部普三首相が「長州の出身の政治家として」と発言して、長州藩の亡霊がよみがえるように感じた。マスコミはなぜ平然としているのか。
作家も気取っている場合ではなく、もっと反社会的でいい。一方で文化の価値は人間にとって、とても大きなものです。日本が、原発を持ちたがる国を相手にもうけるような倫理を欠いた国ではなく、外国から見ればすばらしい美術や音楽があって、文学もなかなか良いというふうになったらどんなにいいか。
戦後からさかのぼって、近代以降の日本がどういう国だったのかを検証することも大事です。産業革命が起きた欧州ではD・H・ロレンスが近代文明を批判したり、ローカルな文化を大事にしたりといった、抵抗する精神があった。けれど日本ではそうした面が見えない不幸もあって、蒸気機関などに圧倒され、追いつけ追い越せで来た。日本の権力は、アイヌや沖縄、在日韓国・朝鮮人の人たちを排除してきた。
人間の心理というものも、掘り下げていきたい。実に醜い部分を抱えているし権力欲もあるのに、人には良く思われたい心理が強く働くのが不思議なんです。人が社会ででっちあげる‘物語’に乗せられないためにも、フィクションで少しでも真実に近づくことが、文学の役割ではないでしょうか。

もう20年以上前になるけれども、その時の私のガールフレンド=Mさんが子を失くした。そのMさんの心を癒す力となったのが、津島裕子との文通だった。
太宰治の娘であった津島も又、子を失くしている。


2013/03/30 (土) 土曜日の朝に


昨日は、待ちに待った日本プロ野球が開幕。
私が愛する阪神タイガースはヤクルトに9対3で快勝。今年のタイガースは生まれ変わりました。しかしながら巨人が広島に4対3で勝ったのが気に食わない。要するに今朝の気分は快感5割不快感5割です。


私は心に決めました。(よっぽどの事情が無い限り)阪神が勝って巨人が負けた翌日は、事務所をささやかな宴席の場とし、誰であれ来訪者を無料接待します。ただし、アルコールを持ってきてください。



それにしても、昨晩はよく飲んだ。



日頃、皆さんから「牧田さんは脳内出血で倒れ、一度は死にかかった身です。お酒は控えめに。煙草はひかえめに。〇〇は控えめに」と言われるし、必ず「そうします」と答えるのだが、実生活はまるで逆。


しかしながら、私のような言行不一致型の人間にも存在意義はある。「反面教師」としての存在意義だ。


2013/03/29 (金) もう週末か


あわら市議選は6月9日告示で16日投開票の予定となっている。ということは、私の任期もあと3ケ月ということなのだが、友人・知人から「後継者は誰や?」と今でもよく聞かれる。


勿論、何人かの人に「出ないか?」と囁いてきたのだが、誰も出ようとしない。識見・人格のあるそういう人たちに出てほしいと思うのだが、誰も出ようとしない。


自分が初めて出た時のことを考えると、選挙に出るということは、配偶者を初めとした家族に対して大きな迷惑をかけることになるになるので、出たくないという気持ちが渦巻くことはよくわかる。


先日、ある人と話をしていた時、相手からこう言われた。
「立候補制をとるのではなくて、有権者が市議になってほしい人の名前を勝手に書く。そして選管が上から順番に、なって構わないかどうかを確認して順々に当選者を決めていく。そうすれば戸別訪問もマイク騒がせもなくなり選挙費用もなくなりちょうどいいのではないか」と言われた。


・・これも卓見のひとつだ。
ということはともかく
本日は事務所模様替えに奔走しています。事務所にある不要物を笹岡焼却場に持って行き、ハンガーを買ってきて身だしなみを整え、読んだ本は全て焼却処分し、つまり6月からの新生活に対応できるようにしているのです。
清潔・・・これが生活の基本です。


どうでもいいことかもしれないが、高校野球甲子園大会を見ていると、攻撃でチャンスになると「ピンチヒッタ〇〇くーん」というアナウンスで、代打が告げられる。チャンスやのにピンチとはどういうことなのか?
私には、昔からこれがわからなかった。ベースボール用語を翻訳したのが正岡子規であることは余りにも有名だが、彼は既に死んでいる。


もうひとつわからないのが、
お座敷小唄の一番だ。


1富士の高嶺に 降る雪も
京都先斗町に 降る雪も
雪に変わりは ないじゃなし
とけて流れりゃ 皆同じ


これはどう考えても
1富士の高嶺に 降る雪も
京都先斗町に 降る雪も
雪に変わりは あるじゃなし
とけて流れりゃ 皆同じ     ではなかろうか。


2013/03/28 (木) ちょっと思ったこと


昨晩の来訪者を含めた5人で「原発を考えるあわら市民の会世話役会」が開かれた。「原発再稼動をめぐっての最近の情勢についての情報交換と日本国内でのエネルギー産出の可能性」という、今、日本で一番ホットな話題についての論議に終始したが、皆さんがお帰りになったあとは、DVDで島崎藤村原作・市川雷蔵主演「破戒」を見る。


視力の退化しつつある私には、文字を追うよりも映像を追うほうがらくになってきた。・・ということはともかくとして、小学校教師の瀬川丑松(雷蔵)は、自分の出自を隠し続けてきたのだが、とうとう噂になってしまい、子ども達の前で自分が部落民であることを告白し、床にひざまづき土下座して謝る。そして学校を去っていく。
この小説に対する批判が多いことは以前から耳にしていたが、その矛先はこのラストシーンにあるのだろう。


ただ、「さりゆく姿」が物語のラストシーンにあるものには、印象深いものが多い。「昼下がりの決闘」「卒業」「赤と黒」エトセトラである。


私事で恐縮だが、昨日もすれ違った知人の何人かに対して、「今まで支援してくださってありがとう。今年の6月があなたとのお別れとなります」と申し上げた。皆さんは「何故?何故なの?」と必ず言う。しかし私は多弁を労せず、「そう言ってくださってありがとう」と答えるのみだ。そして私は不確かな足取りで相手(私の場合は殆ど女性)から去っていく。
その後姿が絵になっていることは疑いないし、「惜しまれるうちに消えるのが花」なのである。

2013/03/27 (水) 敦賀気比高校おめでとう


確定しだい現職失格という、これまでの経過を振り返ってみると当然ともいえる広島高裁岡山支部の衆院選憲法違反判決が出て大きい騒ぎとなっているが、私にとっての昨日の大騒ぎはやはり選抜高校野球甲子園大会・敦賀気比vs京都翔英の逆転また逆転による敦賀気比の勝利だろうと、高校野球ミーハーファンとして思うのであるが、スポーツ観戦の醍醐味はなんにも考えなくてよいところにある。


ということはともかく
昨日、福井市へ所用で行った折、私は春の陽射しを浴びながら県庁のお堀を眺めていた。


このお堀から友人の死体が浮かんだのはかれこれ20年以上前のこと。その2週間前の昼下がりにこの近くの店で鰻の蒲焼を食べながら、当時設計に携わっていた建物に関する話題を二人で交わしていた。
その時の彼の表情が、お堀の水面に瞬間浮かんだような気がする


2013/03/26 (火) 昨晩の月

月みれば 千々に物こそ悲しけれ 
        我が身ひとつの 秋にはあらねど   大江千里

これは秋の歌なのだけれども、そんなことはどうでもよくって、昨晩の春月は見事だった。


知人から「夜、行く」という電話が入ったので、知人を迎えるために私はオープンカフェに出て白ワインを飲んでいた(つまみなし)。見上げると満月だ。ちょっとゆがんでいるような気もしたが少なくともほぼ満月だ。


月は雲の流れのなかで顔を出したり隠したりしている。そのつど空の明るさが変化する。「ああー、自然は変化する。だからこそ自然は生きているのだ。生きて大宇宙を支えているのだ」と妙に感動した私は、思わずある人に携帯電話して、「今この瞬間家の外に出て夜空を見上げてごらん」と囁いた。


電話を切った私は、再び白ワインを飲みながら、「月がとっても青いから」を、小さい声でひとり歌っていた。



2013/03/25 (月) あわら市の魅力発掘


昨日の午後は、中央公民館において「北陸新幹線フォーラム」が開かれた。
基調講演を、清水慎一氏がやって、そのあとはパネルデイスカッション。
コーデイネーターは江川誠一氏でパネラーは、清水慎一氏、奥村隆司氏、湊谷源邦及び橋本市長。
私は湊谷氏の報告を聞きながら、彼のお父さんのことをずーっと思っていた。


最後に、コーデイネーターが会場(200人程いたらしい)に向かって、質問を求めた。
会場の最後列に座っていた私が参加者の背中をみつめながら、「このひととこのひとが質問するのではないか」と瞬間的に思った時、実際にそのふたりが手を挙げてしゃべった。私は自らの直観力の正確さに驚いたのだが、いずれにしても、「ふるさと語ろう会」の会員が意見を発信してくれるのは嬉しい。


フォーラム終了後はそのうちのひとりと、私の車のなかで雑談(テーマは、太平洋戦争におけるミャンマー戦線とフィリピンでの死闘)となった。




ところで、あわら市の隠れた観光魅力のひとつに宮谷石切り場跡があると、私は思う。去年、私は小林記者をここへ案内した。私にとって5回目くらいだったが、何度来ても神秘を感じる。

以下、新聞記事を紹介(福井新聞・・ どうでもいいことだが、巨大洞窟にひとり寂しげにたたずむ男性が私です)。

宮谷石切り場跡
山道を登っていくと、開けた場所に出た。その先の山肌に小さく暗いトンネルを見つけ、体をかがめて中に入る。懐中時計で照らしてそろりと進んでいくと、光が見えてきた。目当ての石切り場跡にたどり着いたのだ。
石造りの神殿を思わせる神秘的な空間が眼前に広がる。聞こえるのは石から染み出て滴り落ちる水の音と、遠くを走る列車の音のみ。地面にたまった水は、どこまでも青い。
足を踏み入れるのは2度目なのに、わくわくして興奮が収まらない。遺跡を見つけた冒険家のような気分。夢中で歩き回り、カメラのシャッターを切った。

細呂木村誌などによると、この地の石は火山灰か固まった凝灰岩で加工しやすく火に強い。石の切り出しはは1887(明治20)ごろ始まり、建築資材や火鉢などに用いられた。セメントが普及するまで、金津から竹田川の水運を利用し、県内一円に出荷されたという。

石切り場がある山の一帯は、JR細呂木駅前の近藤建設(あわら市青ノ木)の私有地。社長の近藤義満さん(46)は「いつかは公開し、パワースポットとして町おこしの起爆剤になれば」と思っている。ただ、山道の整備や周辺の草刈りが必要で、今は余力がないという。

近藤さんは「連絡をしてくれた上で見学してもらうのは構わないが、危ないので気を付けてほしい」と話している。

問い合わせは同社=0776(73)1501 (文・小林真也)



2013/03/24 (日) 昨晩のこと


現在、早朝の5時。新聞を読み終え、パソコンに向かう私の傍らで某市議がすやすやと眠っている。寝顔を見ていると、昨晩の酩酊雑談のおかしさが思い出され、ついつい笑ってしまうのである。


某市議は昨晩、缶ビール12本と赤ワイン1本を携えてやってきた。飲むほどに(議会でも一番饒舌だが・・)饒舌となり、やがて矛先は私にむかってきた。
「毎日まきちゃんのブログを読んでいて言質に深さを感じる。それは尊敬に値するが、しかしタイトルが議員日記となっているのだから、議会で焦点となっていることをもっともっと書くべきではないか。加えて言うなら、ヘンな写真が時々載っている。議員にあるまじき態度だ・・エトセトラ」


ここで私はこのブログを書き始めた初期の頃を思い出した。生真面目な私は、毎日毎日議会のことだけを書いていた。そのうち「面白くない」という電話がかかるようになってきた。「議会の中身の報告は他の議員がやっている。どうでもいいことを書くのがブログの要諦だぞ」と言われた。ここで私は「半径20km以内で目にしたこと耳にしたことだけを予断と偏見をもって書こう」と決意したのです。


ということはともかく
酔っ払った彼の言辞は、彼自身のプライバシーに移ってきた。彼は別れた妻(別れていないのかな?)に対する思いを語り、現在惹かれている女性のことを身振り手振りで語った。その語り口が最高に面白かったのけれども、それを再現するだけの筆力が私にないのが残念だ。


2013/03/23 (土) 哥川


とんぼさんが調べた哥川年表のペーパーを頂いたので、きょうの昼はパソコンのキーボードを叩き続けていた。以下、紹介。

哥川年表
貞享2年(1685) 金津坂ノ下願泉寺・15世有馬東也(声々庵東也)
           江戸遊学のおり、芭蕉に奇遇し師弟関係を結ぶ。


元禄2年(1689) 8月、芭蕉、北金津総持寺に立ち寄る(雨夜塚)、東也ら俳人仲間が集
          まり、旅情を慰める。のちに東也は姫川吟社をたちあげる。


元禄7年(1693) 芭蕉没す。享年51歳。


元禄11年(1697)  東也、江戸で芭蕉十哲のひとり、各務支考と師弟関係を結ぶ。

そのころ、俳壇は松永貞徳が興した貞門派、西山宗因の談林派、磐田涼菟と中川
乙由の伊勢派、各務支考の美濃派が隆盛であった。貞門派、談林派は江戸・大阪・
京都を地盤とし、都市系俳壇と呼ばれ、伊勢派・美濃派は地方に進出していき地方系
俳壇と呼ばれた。北陸は美濃派が盛んになり、千代も支考が松任の旅籠に逗留した
さい、訪ね弟子入りをしている。(千代、17歳)


元禄14年(1700)  各務支考、三国に初来訪。三国俳壇に影響を与える。三国俳壇の
             歴史は古く寛文7年(1667)の「続山井」に
       みどり子の たったる舞や松林  久可
       風をはらふ 木薬も哉春の花  幸雄
       が上梓されている。


元禄16年(1702-1703) 千代、松任に生まれる。


宝永4年(1707)  各務支考、二度目の三国来訪。岸名索嚢、赤垣播東らが支考に
           師事し、日和山連を興す。


宝永7年(1710)  支考、三度目の三国来訪。

享保元年(1716) ぎん(哥川)私生児として生まれる。生地は吉野とも大和初瀬川とも
           言われているが、定説にはいたらず。生年も確認されておらず。
           (千代との差13歳)
           同年、与謝蕪村生まれる。


享保6年(1721) ぎん7歳。三国荒町屋七郎佐衛門の養女となる。
        支考の高弟、仙石慮元坊が三国初来訪。


享保7年(1722)  支考、4度目の三国来訪。
(享保10年の記録) 三国港 家数1800余 人口5300余 豆腐屋6 酒屋17 
両替屋2 質屋8  鍛冶屋30 桶屋150 遊女62
滝谷・出村 町数12 家数370 遊女85 遊女は小女郎とよばれた。


享保12年(1722) ぎん12歳。禿(遊女見習い)となる。
(享保14年・・1729年ぎん14歳との記述あり)


享保16年(1731) ぎん16歳。遊女となる。
各務支考没す。享年67歳。美濃派3世に仙石虜元坊が継ぐ。
(芭蕉を始祖とし、支考は2世)


享保18年(1733) ぎん18歳。伯瀬川を名乗る。翌年に虜元坊、再来訪。


元文2年(1737) ぎん22歳。永正寺17世杉原永言と出会い、師事する。
          巴浪は金津願泉寺・東也の息(弟との説あり)この頃からぎんは
          俳人として哥川を名乗る。三国俳壇・日和山連の創始者・
          岸名索嚢死去。


寛保元年(1741)  哥川26歳。江戸に旅行して文人・俳人・絵師と交流。
          (絵師 菱川師芳・・もろよし。哥川を描く)
江戸座(江戸派)の俳人田女(でんじょ)は「俳諧海山」 (寛文元年1789)で
千代女に記したのち
また三国の哥川は、かわたけの身にあれば、うき世の人の煩悩をやすめながら、白象
となる船待顔に、その風流にあそぶとかや。と記し、
「照れ光れ加賀越前の月ふた夜」と二人を並び称している。


寛保3年(1743)  哥川28歳。金沢にて千代らと句会を開く。千代42歳か。


延享2年(1745) 美濃派3世・慮元坊没す。享年60歳。
        第4世に田中五竹坊が就く。


延享4年(1746)  哥川31歳。遊女を退いて豊田屋初代楼主となる。
        (豊田屋ぎん)各地の俳人との交流が深まる。
        大和の国から母を引き取り、ともに暮らす。

        美濃派では五竹坊が安田以哉坊に座を譲るが、その後、五竹坊と
        以哉坊に論争がおこり、美濃派は以哉坊と五竹坊の門弟・河村再和坊
        が率いる再和派に分裂する。その余波が三国俳壇に及んだ。
        (寛延元年・・1748 以哉坊、三国来訪)
        三国日和山連は始祖・岸名索嚢、2世・赤垣播東、3世・五十嵐佐北に
        継がれていた。4世をめぐり日和山連の内部で以哉派と再和派が
        争った。
        その結果、日和山連宗主には再和派の山崎陸芝が就き、以哉派の
        巴浪は日和山連を離れ滝谷連に参加する。

        その後、日和山連は興ケ丘連、水音文社、三興吟社に名称を変えて
        いる。
        滝谷連は三国川社となる。昭和16年、三興吟社と三国川社が合流して
        三国日和山吟社となり現在に至っている。


宝暦3年(1753)  哥川38歳。豊田屋を2代目伯瀬川(詩川)に譲り、仏門に入る。
        滝谷庵を結び、滝谷尼と称す。哥川の代表作である、尚、豊田屋3代目
        は里川で詩川、里川ともに俳句をたしなみ哥川とともに滝谷三山と
        称された。
        (奥そこのしれぬさむさや海の音)
        は、この頃の句とされている。
        同じころ、千代も松任に草風庵を結び素園と称す。


宝暦4年(1754)  哥川39歳。千代と吉崎で再会。


宝暦6年(1756)  哥川41歳。師・杉原巴浪没す。享年46歳。
        哥川、滝谷連3世の文台を継ぐ。初代は佐北、2世・巴浪(創始者)、
        4世は巴浪の息である永正寺・杉原左潮。


宝暦11年(1761)  哥川46歳。千代、三国に哥川を訪ねる。哥川、俳友を訪ねて
         名古屋に赴く。


宝暦13年(1763)  哥川48歳。松任に千代を訪ねる。


明和4年(1767)  哥川52歳。母(法名釈妙秀)の納骨と俳友の再会のため京都に
           上る。


安永3年(1774)  哥川59歳。千代、蕪村から「玉藻集」の序文を依頼される。
         哥川、病床にある千代の執筆に協力する。
         千代、「玉藻集」の序文を完成する。


安永4年(1775)  哥川60歳。千代、没す、享年73歳。


安永5年(1776)  哥川没す、享年61歳。法名釈妙春。


昭和29年(1954) 滝谷地籍(滝谷庵あたり)で哥川の墓碑が発見される。
        (釈妙春・・母)


資料 「哥川の生涯」本多柳芳氏著 「遊女哥川」中島道子氏著
   「江戸遊里盛衰記」渡辺憲司氏著



2013/03/22 (金) 本日は議会最終日


本日は議会最終日です。
本日は敦賀気比と春工が甲子園大会に出場する日でもあります。


2013/03/21 (木) 一昨日と昨日


一昨日の晩は、芦原温泉某旅館において「旧金津町まちうち議員と区長会OB会の語る会」が開かれた。「議会報告会」ほどにかたぐるしいものではなくざっくばらんな雰囲気だったので、くったくのない意見が交わされたと思う。司会を仰せつかった私としてはほっとしたし、親睦会に入ってからは酒が進み焼酎が進み十分に酩酊したので、コンパニオンも美しく見えた。


最後の挨拶で、「私は6月に議会を去りますが、他の四氏(杉田・北島・森・吉田)は市議選に挑みます。是非とも全員当選をお祈り致します」とくくったが、勿論これは本音です。

明けて今朝は「あわら湯めぐりハント」。先日の広報編集特別委員会でこれの風景記録を仰せつかった私はデジカメを携えて現場に向かった。





杉田鶉山旧別荘では、参加市民に担当者が説明する構図に私もまぎれこんだ。





中に入るとグランドホテルの女将と鉢合わせ。久しく会っていなかったので長話となったが、充実感のある一日だったような気がする。