2014年05月


2014/05/30 (金) デジカメを紛失し、パソコンにメールをとりこめない生活がつづいているがこれはこれでいいものだ

 昨日は、設計の打ち合わせを終えたのち、思い立って三国町のN氏宅を訪れた。70代半ばのN氏には月に一度の頻度でお会いするのだが、老いてますます元気にみえて、会話もはずんだ。が、N氏は「今から入院中の妻の見舞いに行きます」と言う。数年前に倒れ、退院したあとも手術を繰り返しているのだから、夫婦ともに大変だ。「奥様によろしく」と言ってN氏宅をあとにした。

 このところ、会う人は全て自分よりも年長者で、本人あるいは家族にやまいもちが多く、自然そのことが話題の一部になる。「病気はともだち」なのだ。



 それはともかく
 昨晩読んだ対談集・「日本論 姜 尚中×佐高信」のなかに、あわら市にも関係がある魯迅についての記述がでてくる。

佐高  私はよく講演で「善男善女諸君」と言って冷やかすんです。「私は善男善女というのを決して褒め言葉としては使っていない」と。いま言われたように、優等生が最初にファシストになるわけです。魯迅は「自分は天国に行きたくない。天国というのは聖人君子の、いわばいい人の行くところらしいから。私はいい人は嫌いだから、天国に行きたくない」と言っている。そういう苦しみを少しでも持てないものか。ところで姜さんの魯迅体験は?

 「吶喊」自序や「藤野先生」に出てくる、仙台留学中に中国人が殺される幻燈を見るという場面を読んだ時に、深いアイロニーを感じるわけです。それはたとえば9・11や湾岸戦争の時に、アメリカに移り住んだアラブ人がテレビのチャンネルをひねると、白人のアメリカ人が、髭をはやし胡散臭いアラブ人を叩いて、ハンバーガーをかじりながら笑っている。それを横から別のアラブ人が無関心な顔つきで見ている・・そんな番組を見て、いたたまれない気持ちになるという現実につながる。あるいは北朝鮮はとんでもない国だと、北の滑稽な映像を見て日本人が笑う時に、一緒になってそれを笑う韓国人や在日の人がいるかも知れない。それはある意味では自分を笑っているわけです。僕はそういう状況についても考えます。・・・
 それはともかく
 ハーモニカの夕べ のチケットを買ってくださったみなさん、不可抗力とはいえ公演が延期になってしまい、大変申し訳ありません。一昨日にやっと公演者本人に連絡がとれましたが、一ヶ月ほどの延期となるそうです。期日が正式に決まり次第、お一人おひとりに連絡をさしあげます。・・ポール・マッカートニーのような心境の「わちらの会」会員一同

2014/05/29 (木) 南風

 嬉しいことに、一昨日、「南風(なんぷう)」と出会った。

 「琉球泡盛・南風」・・夜、満天の星空を見上げながら事務所のオープンカフェでこれを口にすると、21歳の春が走馬灯のようによみがえってくる。当時、ぼくは沖永良部島最北端・国頭の牛小屋二階で寝起きしていた。生計の糧は百合摘みだった。

 その牛小屋二階へ集まってきた青年たち・・向井くん、和子ちゃん、御手洗くん、サッカー青年くん(今、ナッシュビルで医者をやっていると風の便りに聞いた)、〇〇子・・みんな元気なんだろうか。消息不明だが、元気であればそれでよし、元気でなければそれもよしだ。

 世話になった平(たいら)のおじさんにもう一度会いたい。月夜のサンゴ礁の浜でカンテラ片手に魚捕りをしたい。沖合を悠々と泳ぐ鯨の潮吹きを見たい。恐ろしい形相(本人は前科7犯と豪語していた)の漁師のおっさんと、蛸をかじりながら琉球焼酎を飲み交わしたい。素裸で未明に星砂の浜に出て、寄せる波返す波を眺めていたい。海亀の産卵の声に心をふるわせたい。 

2014/05/28 (水) お知らせ

 本日の読売新聞に、とんぼさん(長谷川勲氏)が出ています。

まずお寺のおばあちゃん写真資料説明(PDF)を読んでから、新聞記事を読んでいただくほうがいいのではないか、と思います。

 さて
 硬派宣言して10ケ月。
 ずうっと軟弱人間として生きてきたので、初めは宣言を言葉どおり受け止めてくれる人は皆無だったが、「継続は力なり」で、それを信じてくれる人が徐々に増えてきて設計依頼も出てきて生活は忙しくなってきた。素直にうれしい。近未来に死ぬのだろうが、「前向きに倒れて死ぬ」・・残された目標はこれだけだ。

2014/05/27 (火) 雨模様の朝

 
世の中は 地獄の上の花見かな と詠んだのは小林一茶だ。
 
 10年ほど前に、なんとかという名前の劇作家著「小林一茶伝」を読んだ。
 三歳で母と死別し継母とは衝突を繰り返す。それが嫌で家を出て俳諧修行にいそしむ。故郷・信州柏原に戻り結婚するも、もうけた三男一女そして妻を早くに失い、64歳で死ぬまで交合に励む。

 こういう経歴の持ち主だから、やけっぱちの人生だったろうし、それが上の句に投影されたのだろう。交合も彼が単に好色だったからというよりも、この本能だけが憂さを晴らしてくれたからだと、ぼくは思う。
 本日の午前中に黒犬を連れたYさんがやって来て、「多賀谷左近」のことをいつもよりビートアップした口調でしゃべっていた時に、、とんぼさんから、「読売新聞の女性記者が来る・・こないか」という電話があった。
 「若くて美しいですか?」とのぼくの質問に対する返答は「しかり」だったので、勿論すぐに行った。
5月5日に 読売新聞全国版に出た記事が、今度、福井版に、より詳しく大々的に出るとのことです。
 「ふるさと語ろう会」会員の皆様へ。
 畝畦千坊跡視察の当日(6/14)が既に入梅しているため、雨天ならば生涯学習館に集まっての「歴史四方山話」懇談会となりそうです。いずれにしろ郵送案内どおりに集まってください。

2014/05/26 (月) 五月ももう終わり

 朝倉喜祐著「知られざる抑留八年の記」を読み終えたが、涙を抑えることのできない部分が所々にあり、著者あとがきをここに添えておきます。

 戦後八年の抑留記は、昭和二十八年四月帰国した際、中京軍後方病院の雑役として、中国内戦、中華人民共和国の建国、ついでその後、満州各地を転々と移動して歩いた町々で見たこと、聞いたこと、体験したことを、記憶のうすれぬままに書き綴ったものである。
 筆をとってみると、当時の生々しい苦難の日々の生活が、日がたつに従って美化され、しかも拙文ときているので、他界寸前に戦後史の一資料として図書館へ寄贈しようと思い、残していた。
 ところが昨年の暮れ、ひょっとしたことから近藤さんの目につき、戦後満州での日本人の足跡の一片として、第一集だけでも活字にしてみたらと勧められその気になった。
 見方、考え方の雑な私のことゆえ、当時のことを表面的に、しかも主観的にとらえている点も多くあろうし、誤りもあると思う。その点は御容赦いただきたい。
 また、お世話になった方々の記述については実名を使わせていただいたことも、あわせてお許し願いたい。
 尚、この第一集の出版にあたって、力をおかしくださった大阪の近藤正旦氏、千葉の谷口泰子さんに心からお礼申しあげてあとがきとする。
                     平成四年初春
                                 福井県坂井郡金津町吉崎
                                     筆者 朝倉喜祐
 要するに昭和20年8月15日の終戦勅諭を察知した関東軍上層部はいち早く家族を内地に帰し自らも内地へ逃げる。そして帝国陸軍軍人たちへの解散命令は発せられないままだった。つまり彼等は除隊兵となってしまったのである。これが終戦一週間前にスターリンにより宣戦布告された結果の大量シベリア抑留へとつながるのであるが、シベリア抑留とまでいかなくても、朝倉氏やお町さんなどの孤軍奮闘が四面楚歌の家族たちを助ける力となる。

「知られざる抑留八年の記」と「お町さん」を読み比べてみると、朝倉氏と女侠客・お町さんあるいは芦田伸介との連携は終戦後に濃密になったようで、日頃温厚な朝倉先生に接していてこのような過去があったとは、ついぞ知らなかった。
 「知らなかったのが残念」とは思ったが、地獄絵図は人に語れないのが人間の真実でもあろうし、かつ、死期が近づくにつれ文章に書き残したい思ってくるのも人間の真実であろう。

 付記
 特にあわら市職員に知ってほしいのですが、お町さん(道官咲子)は、今、教育委員会にいる道官氏の先祖です。



2014/05/25 (日) 森のコンサート

 昨日は、森のコンサートを楽しんだ。
 集合場所の椚公民館から刈安山頂上(標高五百数十メートル)までの狭く急峻な坂道を、私はあわら市在住の在野VIPふたりをマイカーの助手席と後部シートに乗せて走ったのだが、頂上にたどり着くまで気が気でなかった。
 マイカーがぼんこつだからで、自身がぼんこつの私はともかく、二人の俊才を道路横の崖下への転落に付き合わせたのではあわら市の損失になるからだ。
 でもまあなんとかかんとか頂上へ。

 天使の歌声じゃなくて中年男女の歌声の混声合唱が始まった。


 次に地元和太鼓クラブの演奏、そして愛知県からきた和太鼓クラブの演奏へと続き


 最後は、「歩く植物図鑑」たちによる刈安山植生の説明会となった。


 二杯のおろし蕎麦をたんのうしてから、下山。ぼんこつ愛車トウデイは、一路創作の森へ向かった。


2014/05/24 (土) きょうはCADざんまい

 昔から独特の文体の夭折詩人・寺山修司が好きだった。

 寺山がまだ存命の頃だったと思うが、二年間ほど、週に一度ずつ三国高校へ手話を教えに行っていたことがある。最後の授業が終わってからのサヨナラ挨拶で、「みなさん、みなさんは高校を卒業して、進学したり就職したり恋愛したり結婚したりしていくのでしょうが、それは、可能性の一つひとつを消しゴムで消していく行為なのです」と、ちゃっかり彼の言葉を拝借して挨拶を終えたのだが、担任教師に、「生徒たちの夢を壊すようなことを言わないでください」と、しっかり叱られてしまった。
 しかし、年長けた自分が半生を振り返ってみると、この言葉には重みがあるとことを実感する。

その寺山の歌で、意味が全く分からずそれでいて気になっていたのが
「人生は ただ一問の質問に すぎぬと書けば 二月のかもめ」で、今年に入ってから、すこしわかったような気がする。

2014/05/23 (金) もう週末か

 
昨晩は打ち合わせ会議があったので、坂ノ下区民館に居た。

 

 「地域の環境を子供たちに見てもらい保全を考えてもらう」を目的とした会議のための打ち合わせで、子ども会代表の人たちがきていた。
 夜7時には眠りにつくのが定番の私にとって、夜の会議はとても苦手なのだが、そうも言ってられない。初めは目をこすりながらだったが、時間が経つにつれて意識がはっきりしてきた。会議を終え自宅に戻り晩酌を楽しんだあとは、目がさえて眠られない。仕方なくオープンカフェに出て、夜空をみあげていた。

 人間の体は不思議なもんで、意志力を強くもてば、眠気などふっとんでしまうのだ。
 「心頭滅却すれば火もまた涼し」なのである。
 ということで
眠気がでてくるまで、朝倉喜祐著「知られざる抑留八年の記録」を読んでいた。



著者はお町さんに再三出てくる人で、私が15年前に金津町議会議員選挙に出た時、お世話になった人でもあるが、数年前に亡くなられた。
 
 初めてお会いした時、「ふつうの人ではないな」とは思ったが、この本を読み進めるうち、「このような波乱の過去があったのか」と驚いた。
 けれどもよく考えてみると、ふつうの平穏な一生を終えたようにみえる人にもそれぞれに波乱の過去があるはずなのである。ただ、本を出せるほどの文筆力があるかないかだけの話だ。そういう意味で、世の中は不公平だと思う。

2014/05/22 (木) 無題

 人嫌いが昂じて閉じこもり症候群に陥り、事務所の外へ出ないつまりCADと読書だけの日々が続いていて、昨晩は、1947年生まれの作家・沢木耕太郎著「深夜特急 第一便 黄金伝説」を読み終えた。

 この本は、著者が26歳の時の「日本を飛び出し、香港からシンガポールまでの文無し場当たりの旅の記録」であるが、著者はどうやら予定調和的なものが嫌いで、場当たりの旅であるが故に各地でまきこまれる予期せぬ事件の描写に軸足をおいている。事件といってもいわゆる刑事になるような事件ではなくて、出会った人々とのちょっとした歯車の狂いから起こるものなのだが、それは人間が本来持っている猥雑性によるもの、と主張しているようにぼくには思えた。

 新聞を見て驚いた。 
 尾花さんが亡くなった・・豪快繊細の尾花さんが若くして亡くなった。
10数年前、ぼくが金津中PTA会長だった時、彼に父兄を対象とした講演をしてもらったことがある。テーマは部活動についてだったと記憶している。
 自衛隊のレスリングで鍛えぬいた肉体をもつ彼のことだから、「極限まで練習せよ」が内容だと思っていたら、「極限から練習せよ」だった。
 みんなが集まってからまずは10kmマラソン。それが終わると上司の「よし、準備運動終わり、今から練習開始!」との命令がかかったという。
 隠れて奉仕をする人だったし、蓮如をこよなく尊敬し、今の世の乱れを嘆き続ける人だった。愛嬌のある顔での豪快な笑い声の人だった。
 本日の夕刻、矢継ぎ早の電話で大わらわの時に、ある人がきれいな花満載の鉢植えを持って登場。


 「牧田さんの事務所は人通りの多い道路に面しているので、これを持ってきた」という。
 写真で見る限り、持ってきた人は清楚な若い女性と思うかもしれないが、さにあらず、中年男性だった。でもぼくは心のなかで手を合わせた。

 

2014/05/21 (水) おわび

ハーモニカの夕べ の公演者が緊急入院という異常事態が一昨日に発生しました。昨日、NPO法人に来てもらい、善後策を話し合った結果公演日を延期することになりました。勿論、チケットを買っていただいた方々を近日中に訪ね、仔細を説明させていただくつもりですが、とりあえずこの場でおわび申し上げます。

7年前、この企画が持ち上がった時に私が倒れて緊急入院。7年ぶりにやっと実現と思っていた矢先、今度は公演者が緊急入院。「一寸先は闇」です。

2014/05/20 (火) トリムマラソン

 一昨日、トリムマラソンのスタート場所に30分ほど居た。鉢巻トレパン姿が一斉に走り出していく。 どこのマラソンイベントでも、そこは老若男女健康増進の場なのだ。
 しかし・・と私は思う。
 足腰の故障した人間(私もそのひとり)はこのイベントにランナーとして参加することができない。せいぜい見ているだけだ。
 たとえば、最近ではオリンピックとパラリンピックが並行して挙行されている。マラソンで言えば車椅子マラソンが導入されている。10数年前に五輪車椅子マラソン銀メダリスト講演の手話通訳をしたことがあるが、傍で見る彼の体は筋肉隆々だった。
 五輪ではなく、地方のローカルイベントでも 、「車椅子マラソンの部」があったらランナーとして参加を希望する、税金を使ってのイベントなのだから障害者排除は差別だ」と思っている男女は結構いるのではなかろうか。
 「全国を俯瞰すれば「車椅子マラソン選手権」は挙行されているが、大事なのは、健常者と障害者が一緒に走ることではないだろうか。いや・・すでにあるのかもしれないが」と、自身は不健康志向で愛飲・愛煙家の私は思う。

 話は変わるけど、この公開日記を読んだ人から「牧田さんは、なぜ障害者と書くんですか?ショウガイシャが害になる存在じゃないですよ。障がい者と書くべきです」と言われて考えた。

 私が「障害者」と書く理由は単純で、意識的無意識的であるにかかわらず、健常者はショウガイシャに対して害を与え続けている存在だと思うからです。
 それはともかく
18世紀仏の政治哲学者ルソー が「人民は自分たちは自由だと思っているが、それは大間違いである。彼らが自由なのは議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれてしまうと(選挙後は) 彼らは奴隷となり、何ものでもなくなる」と言っていて、笑ってしまう。
 その通りだからだ。

2014/05/19 (月) 購入パソコンのデーター整理に忙しい日々

 昨晩は生涯学習館3階会議室において、トルコ在住17年の女性(62歳)から、「トルコから見た日本」をテーマとした話を聞いていた。あわら市の外へ出ることのほとんど無い出不精・牧田にとって、世界を股にかけて飛び回るインテリ女性と会うは初めてで、目からうろこが落ちるというのは、このことを言うのだろう。

 

 トルコはイスラム圏内でありながらイスラム圏外であるような微妙な立場にたつ国で、今でも「EUに加盟するor加盟しない」でもめているそうだが、つまりは西洋とイスラム世界と東洋との結節点という位置にあるということだ。
 イスラムというとテロ行為を思い浮かべるのが平均的な日本人だろうが、敬虔なイスラム教徒にとってテロは全く無縁だそうだ。
 彼女の「トルコ人の識字率は日本人に比べて低い。だけどものごとを自主的に判断しようとする態度は、マスコミに飼いならされた日本人よりもずっと上です」の言葉が印象的だった。

 彼女の弁舌で定時の9時がすぐにきてしまったので、続きはぼくの事務所でということになり、コンビニ購入のすしなどをつまみながら四人での座談となった。今度は男3人が彼女に語るという流れになり、焼酎を少し飲んで頭がすっきりとしたぼくも、「わが心の沖永良部」を熱を込めてしゃべった。

 12時に散会したが、その後もなかなか眠れず、結局午前3時就寝。

2014/05/18 (日) お粥を食べながら

 今朝、所用で波松へ行った。海岸線に出たらサーフィンのお兄さんたちが泳ぎまくっている。

 午前5時半でこうなのだから太陽が頭上に見える頃には、浜辺が若者でいっぱいになるのではなかろうか。

2014/05/17 (土) 新しくなった私

 昨日の昼、ようやく口の中が整った。下の歯は生きているけれども、上の歯は二本を残して全てダメ。
 それが総入れ歯として復活した。フガフガしゃべりを脱することができるようになったのである。
 このところ言語不明瞭人間となっていたので、話相手を困らせてきた。
 筆談を考えもしたが、脳内出血による後遺症で指先にマヒが残り、きちっとした字を書く自信もなかった。唯一自信のあるのはCADだけという状態だった。
 それはともかく

 今朝は午前3時55分から満月の下、徘徊に出た。

 金津小学校の廻りを徘徊していて驚いたことがある。

 小学校の近くにあった小山が消え失せ、駐車場となっているのである。20年ほど前、金津幼稚園の先生(当時は若くて美人だった)が、「牧田さん、あの山のなかの樹々はね、強い風が吹くと泣くのよ・・枝と枝がこすれあって悲鳴をあげるのよ」と私の耳元でささやいたその山が消えたのである。

 ふるさとの 社の裏の貝塚は 今も昔のままなるらんか
 この歌は永井元金津町議のおじさんで童話作家の永井なんとかという人の作なのだが、さて、貝塚のほうはどうなっているのか。

2014/05/16 (金) もう週末か

 いつの間にか5月も中旬になってしまったが、このところオープンカフェの整備に余念がない。整備したところでどうということもないのだが、草花に水を遣ったり庭を掃いたり廃材でくぐり戸をつくったりする作業が面白くて、すくなくとも退屈しのぎにはなる。

 もともと趣味を持たなかった私としては、年長けて初めて持った趣味といえる。

2014/05/15 (木) 無題

 最近は時々新聞を読むようになってきたが、それでも読む日は限定されている。
 ①前夜のプロ野球で阪神が勝った日
 ②前夜のプロ野球で巨人が負けた日

 昨晩のプロ野球結果は、阪神vs広島=4対3で阪神の勝ち及び巨人vsヤクルト=3対10で巨人の負けで、阪神・巨人のゲーム差が無くなった。

 こういう日は、新聞をオープンカフェに持ち出し熱々珈琲を飲みながら丹念に読む。紙面が朝陽に照り輝いて、世界が今日一日の私の活動を祝福してくれている気分になる。
 さあ、きょうも頑張ろう。
 それはともかく
 本日郵送されてきた1000人委員会チラシのなかに大江健三郎のコメントがあって彼はこう書いている。
 
「「私には生き直すことはできない。しかし私らには生き直すことができる」。私はもう老年です。私は行き直すことはできない。しかしあなた方は生き方をかえることができる。あなた方とともに、私も、自分の生き方をかえることができるという希望を持つことができる。・・」

 さすが小説家やなあと思った。いい言葉を使う。
 

2014/05/14 (水) お願い

 必要があって、金津町の昭和時代(高度経済成長以前)の農村風景の写真をコピー収集しています。お持ちの方は、是非、牧田までご連絡ください(090-1635-5710)。

 図書館に行くと、いくつかの地区の古老が出している小冊子がありそれはそれで面白いのですが、



今の子供たちが眺めて「へええ!」と目を見張るような写真があればなあ、と思います。
 それはともかく
 芦原町温泉の工事現場へ行った帰り、田んぼの排水溝で海老を捕まえた。


 ゴミ箱を利用した水槽に二匹の海老を入れたので、先住民族(三匹の金魚)との共同生活となったわけだが、平和が保たれるかどうかはわからない。アメリカ大陸の先住民族であるインデイアンは、大西洋を越えてやってきた白人種に侵略され辛酸をなめているのだから予断は許されないが、食い合いなどせず平和に暮らしていただきたい。
 それはともかく
 本日の昼休みに大リーグ・シアトルマリナーズ岩隈のピッチングを見ていた。八回まで失点ゼロの好投だ。快投と言っていい。
 「1対0の完封ペースや。さすが日本人大リーガーは違う」と思って眺めていたら、監督は9回に岩隈をクローザーに変えた。途端にホームランを打たれて岩隈の勝利はなくなってしまった。
 「日本のプロ野球やったら岩隈を9回まで投げさせる。大リーグのなんとかというアホな監督は思考力が無いんやなあ」と思った。本日の岩隈は悲劇のヒロインといえる。

 2014/05/13 (火) きょうは出張

「・・DNAのゲノム解析で見ると、チンパンジーはヒトの半人なのではない。チンパンジーのゲノムの塩基配列では半人どころか、ヒトゲノムとはわずか1・23パーセントしか違わない配列になっている。ヒトは98パーセントのチンパンジーであり、チンパンジーは98パーセントの人類なのである。
ヒトとチンパンジーの頭蓋骨の比較

『生物の進化大図鑑』(河出書房新社 2010)より・・」松岡正剛・千夜一冊から抜粋

 とすると、言葉を持ったり服を着たり国家をつくったりしてチンパンジーと識別される我々との彼我の能差は2パーセント弱にすぎないのであり、霊長類ナンバーワンなどといばることに殆んど意味はないだろう。
 本日の午前中は、福井佼成議員懇話会があり、ぼくはそれに出席した。
 第Ⅱ部・研修会での講演演題は「人がたり夢がたり」で、講師は「一筆啓上賞」の仕掛け人として有名な大廻政成氏。



今、東京世田谷区に住んでいるぼくの妹と大廻氏は、昔同じ劇団で舞台劇をやっていたので、講演終了後、ぼくは名刺交換をした。氏はびっくりしたようなふうでぼくの顔をまじまじと見つめた。

ぽくの妹は美形というほどでもないが、鰻のかば焼きでいうと「並の上」くらいか。その兄貴さんが、ひなにはまれなイケメンだったので、驚いたのだと思う。

2014/05/12 (月) その2

本日は、風がとても強いので、戸外に出る時は十分気をつけましょう。
 それはともかく、宮本輝著「森のなかの海」をやっと読み終えた。
 1995年一月に起こった阪神淡路大震災に遭遇し仲の良い友人たちを失った主人公・希美子は、加えて大震災を契機に夫の不貞が発覚し、身も心もボロボロになって実家へ戻るのだが、、ふとしたことがきっかけで品の良い老女・毛利カナ江と知り合う。

カナ江は既に病魔に犯されており、希美子に全財産をあげることを遺言して、何十年も孤高に暮らしていた奥飛騨山中の西洋館で死ぬ。希美子は逡巡した挙句、ふたりの子とともに奥飛騨の広大な敷地に移り住む。

ある晩、6人の女子高校生たちが西洋館に闖入してくる。彼女たちも又、大震災で親・兄弟・友人を失い、毎朝午前5時になるたび、体が異常反応をおこしパニックに陥る。いたたまれず彼女たちは神戸を脱出したのだった。

 そして希美子と彼女たちとの奇妙な共同生活が始まるのだが、ここから物語は急展開を見せることになる。
 広大な敷地の中心地に欅の巨木があった。高校生たちがターハイとなずけた巨木は、彼女たちの行為を胸の奥底をじっと見続けていた。しかし「黙して語らず」だった。彼女たちは、時折、巨木の根回りに座り、言い知れぬ安堵を感じていた。
 そうなのである・・ぼくの友人が言ったように「沈黙は究極の雄弁」なのである。

 ぼくがこの小説を読み終えた時、「宮本は丸谷才一の「樹影譚」に触発されてこれを書いたのではないか」と思った。私事だが、ぼくも又時折一本の巨木の前に立ち、安堵を覚えている。

2014/05/12 (月) 新しい一週間が始まった

 昨日の朝は、お袋を福井市・江守の里団地にある従妹宅へ車で連れて行った。お袋の長兄の50年忌法要が営まれるためで、小浜市や敦賀市から従妹たちが集まってきて、久しぶりの再会が嬉しかった。(一番親しい従兄が病床にあってこれなかったのが残念だが・・)

 従妹たちのなかではぼくが一番若い。にもかかわらずヨボヨボ度はぼくが一番で、生老病死の順番が必ずしも年齢通りではないのだが、これも人生だ。つまり「人生いろいろ」なのである。

 昨晩は事務所に於いて、「原発を考えるあわら市民の会」・世話人会が開かれた。


 今月の18日午後6時半、生涯学習館でトルコ人女性がしゃべるそうです。(入場無料、どなたさんもお気軽にどうぞ)
 それはともかく
 今朝のテレビが「ストーカー行為の実態」を特集している。それを見ていて、ぼくが過去にとった行為と同じではないか、と思った。朝食時に妻に、「好きだったからとはいえ、貴女にストーカー的行為を繰り返してごめんなさい」と謝った。
 「ホントや・・今やったら立派な犯罪で、逮捕・立件や」が妻の返答だった。

2014/05/11 (日) うどを食べながら

 昨晩は、あわら市文化会館において、「ふるさと語ろう会」・定期総会が開かれ、


 ぼくは冒頭の挨拶でざっと以下のことをしゃべった。
 ・この会も7年前の設立以来、活動の幅が少しずつしかし着実に拡がってきている。
 ・設立当初数人でしかなかった会員数も現在では20数人となり、マイナーな会としてはそれなりの人数になってきたのではないか。
 ・ただし、女性が少ないのがいかにも残念。本年度は、女性発掘に頑張りたい。(女性会員獲得に関しては、ぼくが中心にならざるを得ないだろう。)

 議事が「平成26年度事業(催事)計画案」に移った途端、会員からの意見が活発に出始め非常な盛り上がりを見せた。
「◎◎を計画にいれよう」「いや××案を優先すべきや」「△△案が妥当じゃないか」エトセトラで、ちょっと中途半端になった感もあるが、総会を定時に打ち切った。

 9時半に帰宅し、事務所で晩酌を楽しんでいたら、S氏が来訪。とんぼさん著・お寺のおばあちゃん国鉄北陸本線敷設(PDFの資料を渡して流れを説明した。
S氏は、「牧田さんのホームページ・「郷土いろいろ」でこれらを読んだことはありますが、こうして耳で聞くと、又印象が違ってきます」と言う。
 確かに誰かが思いや考えを発信しようとすると、まずは身振り・手振り、次に音声言語、そして最後に文字という順番になるし受信も同じだと思う。

2014/05/10 (土) 会員の皆様へ・・本日は「ふるさと語ろう会」定期総会です

 昨日は終日出ずっぱりで、二週間ほど閉じこもっていたのとは対照的な一日となった。

 午前中は旧金津町の長老的立場の方のご自宅を訪問し、「お寺のおばあちゃん」のことをいろいろしゃべってきた。午後、Yさんから電話が入り、伴われて教育委員会へ。話の内容は「畝畦千坊跡」の整備についてとなった。市庁舎退出後、おいしいものを持って、ある場所へ。憎からず思っている女性がおいしいものを食べている横顔をみているのは、それだけで嬉しくなる。

途中、電話が入り波松へ。Kさんと「ふるさと語ろう会」定期総会についての打ち合わせをこなし、帰り際に「うど」をいただいた。できたら自分で調理し味わいたい。

2014/05/09 (金) もう週末か

 昨日の来訪者から、「議会報告会」に対する幻滅を聞かされた。「あんな議会なら、ない方がいい」とまで言って帰っていった。

 しばらく考えたのだが、去年6月までつまり現職議員であった頃にはそこまでの露骨な声を聞かされたことはなかったのであって、つまり個々の議員がどう思うかは別として、市民にとっては議員の目線の高さ・議会の敷居の高さが確実にあるということだ。
 議員を辞めて一般市民に戻ってからそういう声を多く聞くようになってきたということは、たぶん僕にとって幸せなことである。
 ということはともかく、 宮本輝著「森のなかの海」が最終章に近づいた。

 夫の転勤に伴って阪神間に住んでいた主人公・希美子は、1995年一月の早朝に阪神淡路大震災に出会う。
 「・・希美子は遠くから何かが押し寄せてくる音を聞いた。何百頭もの馬が自分に向かって走って来るようでもあったし、地中の洞窟から気味悪い呪文が沸き起こったようでもあった。
 妙な不安を感じて耳を澄ました瞬間、大音響とともに、希美子は布団と一緒に空中に放り上げられた。近くに飛行機が落ちたのか、ダンプカーが家に突っ込んできたのかと思うまもなく、希美子の体は前後左右に大きく揺れた。
 何かが体の上に落ちてきて、ガラスの割れる音や材木の折れる音が聞こえたので、希美子は両手で頭をかかえ、体をくの字にして、掛け布団のなかに隠れた。
 希美子が、これは地震だと気ずいたのは、揺れがおさまるほんの、二、三秒前であった。
 掛け布団から顔をだし、起き上がろうとして、天井に頭をぶつけた。落ちてきた天井は、置き場所がなくてとりあえずその部屋に収納したままのドレッサーに支えられて、床から約一メートルのところでかろうじてとどまっていた。しかし、いつまでも支えきれるものではないことは、ドレッサーの脚の軋みでわかった。

2014/05/08 (木) 無題 

 昨日の朝、中年夫婦宅で四方山話に興じていて話題が「銀杏の家」に転じた時、「こんな著作もあるよ」と書斎から取り出してきたのが、西里えり著「柳の綿」。

 

 妄想だけが得手の僕には、緻密な構成力を不可欠とする小説書きが同じ町内に住んでいることが不思議だし嬉しい。その意味ではミーハーなのだから時間を見つけて読んでいきたいと思う。

2014/05/07 (水) 巨人負け 広島負けども虎勝利 翌日休刊とは とても残念 (字余り・・牛)

 昨日の朝は、里山で鉄づくりに励む知人の工房へ行った。
 あわら市政を憂い社会教育のこれからを論じ合っていたのだが、今の季節の里山は緑がまぶしく花々が咲き乱れていてまことに気持ちがいい。体がポカポカと温まってきて、このまま意識を失っていくのが理想的な死なのではないかと思ったが、どっこいまだ生きている。
 生きている限りは、生きている意味を見出すために努力し充実した生に向かって頑張らねば、と思った。
 久しぶりに前向きを感じた半日だった。

 午後は事務所に閉じこもって反省しきり。
 僕は、去年の5月に議員を辞め窮屈気分が和らいで本来の自分に戻ったような気がしていたのだが、実はだわになっただけだとわかってきた。今年の一月に年金生活者の仲間入りをしたことで、ぼんやりとした楽な生活ができると思っていたのだがさにあらず。苦楽のなかにしか楽はないと思った。

 チャールズ・チャップリンが「ライムライト」を撮ったあとの記者会見で「今までで一番の作品は何だとお思いですか?」と聞かれた時の答えが「ネクスト ワン」で、実にかっこいい。
 話変わって
 学童疎開のこと読売新聞に記事として載りました。こんどは福井版に、より大きく詳しく載るそうです。

2014/05/06 (火) 熱々珈琲を飲みながら
 午前4時に目が覚めた。外へ出ると霞がかかっている。春霞というやつだ。
 米軍払下げの双眼鏡(¥1000エン・鯖江のフリーマーケットで購入)で眺めるとなかなか美しい。
 
 

 ・格言その一
  美しさなどというものは、あくまでも見る側に属する事柄であって 見られる側の問題ではないのである(井上ひさし)

  
 
 世の中全体がボワっとしているように思える。
 「一寸先は闇」という格言は、これを見てつくられたのではないのだろうか。
 ということはさておき
 本日の午前中は、里山ひとりドライブを楽しんでまいります。

2014/05/05 (月) ジョルジュ・ムスタキを聴きながら

 ・パソコンを入れ替えてから一か月が経過したが、いまだにメール受発信の操作方法がわからない。しかしファックスは持っている。考えてみると、ファックスでは手書き発信が可能なので、より人間的な通信手段と言えるのではないだろうか。

 ・金魚水槽が壊れてしまったので、金魚をゴミ箱に移した。勿論、事前にゴミ箱をきれいに洗ってから移したのだが、金魚たちも住処が広くなって、気持ちよさそうに泳いでいる。
 
 ゴミ箱はゴミが付着しているから汚いのであって、丁寧に洗えば清潔な容器となる。

 ・昨日の昼下がり、ぶらりとトンボさんがやってきた。
 この連休中、海や山に出かけ、草花の写真を撮りまくっているとのこと。「私は、やることがないと、真昼間から酒を飲んで酔っ払ってしまう。それで、一時、肝臓を悪くしたので、自然に触れることによって健康回復に努めている」のだそうだ。
 
連休に入ってから、誰と会うこともせずに閉じこもりの日々を送っている我が身も健康によいはずがない。
 反省せねば、とぼくは思った。

それはともかく
山本 兼一(2014年2月没 57歳)著「利休にたずねよ」を読み終えてから一週間が経った。
 おやっと思うようなところがいくつかある。
 有名な逸話だが
 「ある年の晩秋、知人から利休庵を訪ねるという知らせを受けた利休は、利休庵に通じる露地に被さる落ち葉をほうきで掃き清めた。そのあと、露地脇の樹木の幹を震わせ数枚の落ち葉で露地に彩りを与えた。利休の美意識がそうさせたのである」と書いてあったが、この行為についてのぼくの理解は全く違う。

 「利休は来客が気持ちよく露地を通れるように落ち葉を掃き清めた。そのあと、まてよと考えた。「来客は、私のために掃き清めてくださったのか・・申し訳ないなあ、と恐縮しなさるのではないか。そんなくらいだったら元のままにしておこう。そうすりゃ相手はリラックス気分で来てくださる」と思ったのである。(わたくしごとだが、おまき庵での来訪客応対に関しては、一切気にしない)
 
 この本は24の章で成り立っている。
・死を賜る 利休
・おごりをきわめ 秀吉
・知るも知らぬも 細川忠興
・大徳寺破却 古渓宋陳
・ひょうげもの也 古田織部
・木守 徳川家康
・狂言の袴 石田光成
・鳥籠の水入れ ヴァリニャーノ
・うたかた 利休
・ことしかぎりの 宗恩
・こうらいの関白 利休
・野菊 秀吉
・西ヲ東ト 山上宗二
・三毒の焔 古渓宋陳
・北野大茶会 利休
・ふすべ茶の湯 秀吉
・黄金の茶室 利休
・白い手 あめや長次郎
・待つ 千宗易
・名物狩り 織田信長
・もう一人の女 たえ
・紹鴎の招き 武野紹鴎
・恋 千与四郎
・夢のあとさき 宗恩

 たとえば
 ・野菊 秀吉
 利休切腹の前年
 天正十八年(1590)九月二十三日 朝
 京 聚楽第 四畳半

 「・・利休が膝をにじって、床の前にすすんだ。
 ・・さてあやつめ、どうするか
 秀吉が障子窓のすきまに顔をつけた。
 利休の背中にも、肩にも、手のうごきにも、逡巡はない。
 ・・なにも迷わぬのか。
 なんのためらいもなく両手をのばした利休は、左手を天目台にそえて、右手で野菊をすうっとひきだし、床の畳に置いた。
 天目茶碗を手に点前座にもどると、水指の前に茶碗と茶人、茶碗をならべ、一礼ののち、よどみなく点前に取りかかった。
 茶を点てている利休は、見栄も衒いも欲得もなく、ただ一服の茶を点てることに、心底ひたりきっているようである。
 といって、どこかに気張ったようすが見られるわけではない。あくまで自然体でいるのが、よけい小憎らしい。
 床畳に残された野菊の花は、遠浦帰帆の図を背にして、洞庭湖の岸辺でゆれているように見える。
 秀吉は、途端に機嫌が悪くなった。
 むかむかと腹が立つ。
 それでも、最後のしまつはどうするのかと、そのまま見ていた。
 三人の客が茶を飲み終え、官兵衛が鴨肩衝の拝見を所望した。
 客が茶人を見ているあいだに、利休は水指から天目茶碗まで洞庫にかたづけた。
 拝見の終わった鴨肩衝を、仕覆に入れ、利休は膝をにじって床前に進んだ。
 置いてあった野菊の花を取り、床の勝手のほうの隅に寄せかけた。
 鴨肩衝を床に置くと、利休はまた点前座にもどった。
 床の隅に置かれた野菊の花は、すこし涸れて見える。
 ・・負けた。
 秀吉は、利休を笑ってやろうとした自分のたくらみが、野菊の花と同じように涸れてしまったのを感じた。
 なんのことはない。むしろ、笑われているのは時分であった。・・」

 たとえば
 ・西ヲ東ト 山上宗二
 利休切腹の前年
 天正十八年(1590)四月十一日 朝
 箱根 湯本 平雲寺

 ・・山上宗二に秀吉が問う。
 「おまえが茶の湯者というなら、身ひとつでここにまいっても、なにか道具を持って来たであろうな」
 「むろんにございます」
 宗二は懐から、仕覆を取り出してひろげた。なかは、端の反った井戸茶碗である。すこし赤みがかかった黄土色が、侘びていながら艶やかな印象をかもしている。
 秀吉が、その茶碗を手に取って眺めた。黙って見つめている。
 やがて、薄いくちびるを開いた。
 「つまらぬ茶碗じゃな」
 
 乱暴に置いたので、茶碗が畳を転がった。
 「なにをなさいます」
 宗二はあわてて手をのばし、茶碗をつかんだ。
 「さような下卑た茶碗、わしは好かぬ。そうだ。割ってから金で接がせよう。おもしろい茶碗になるぞ」
 「くだらん」
 宗二が吐きすてるようにいった。
 「こらッ」
 利休は大声で宗二を叱った。
 「こともあろうに、関白殿下に向かって、なんというご無礼。さがれ、とっととさがれ」
 立ち上がった利休が、宗二の襟首をつかんだ。そのまま茶道口に引きずった。
 「待て」
 冷やかにひびいたのは、秀吉の声だ。
 「下がることは相成らん。庭に引きずり出せ。おい、こいつを庭に連れ出して、耳と鼻を削げ」
 秀吉の大声が響きわたると、たちまち武者たちがあらわれて、宗二を庭に引きずり降ろした。
 「お許しください。お許しください。どうか、お許しください」
 平伏したのは、利休であった。
 「お師匠さま。いかに天下人といえど、わが茶の好みを愚弄されて、謝る必要はありますまい。この宗二、そこまで人に阿らぬ。やるならやれ。みごとに散って見せよう」
 立ち上がると、すぐに取り押さえられた。秀吉の命令そのままに、耳を削がれ、鼻を削がれた。血にまみれた宗二は、呻きもせず、秀吉をにらみつけていた。痛みなど感じなかった。怒りと口惜しさがないまぜになって滾っている。
 「お許しください。憐れな命ひとつ、お慈悲にてお許しください」
 利休が、地に頭をすりつけて秀吉に懇願した。
 宗二は意地でも謝るつもりはない。秀吉としばらくにらみ合った。
 「首を刎ねよ」
 秀吉がつぶやくと、宗二の頭上で白刃がひるがえった。・・ 

 たとえば
 ・白い手 あめや長次郎
  利休切腹の六年前
 天正十三年(1585)十一月某日
 京 堀川一条

 京の堀川は、細い流れである。
 一条通に、ちいさな橋がかかっている。
 王朝のころ、文章博士の葬列が、この橋をわたったとき、雷鳴とともに博士が生き返った・・。
 そんな伝説から、橋は戻り橋とよばれている。冥界からこの世にもどってくる橋である。
 その橋の東に、あめや長次郎は瓦を焼く釜場をひらいた。
 「関白殿下が、新しく御殿を築かれる。ここで瓦を焼くがよい」
 京奉行の前田玄以に命じられて、土地をもらったのである。
 聚楽第と名付けられた御殿は、広大なうえ、とてつもなく豪華絢爛で、まわりには家来たちの屋敷が建ちならぶらしい。
 すでに大勢の瓦師が集められているが、長次郎が焼くのは、屋根に飾る魔よけの飾り瓦である。
 長次郎が鏝とヘラをにぎるとただの土くれが、たちまち命をもらった獅子となり、天に咆哮する。
 虎のからだに龍の腹をした鬼龍子が、背をそびやかして悪鬼邪神をにらみつける。
 「上様は玉の虎と、金の龍をご所望だ。お気に召せば、大枚のご褒美がいただけるぞ」
 僧形の前田玄以が請けあった。
 「かしこまった」
 すぐに準備にかかった。
 まずは、住む家を新しく建てさせ、弟子たちと移った。
 そこに大きな窯を築いて、よい土を集めた。
 池を掘り、足で土をこねる。
 乾かし、釉薬をかけて焼く。
 今日は、焼き上がった瓦の窯出しである。
 「こんなもんや。ええできやないか」
 弟子が窯から取りだしたばかりの赤い獅子のできばえに、長次郎は大いに満足した。
 獅子は、太い尻尾を高々とかかげ、鬣を逆立てて牙を剥き、大きな目で、前方をにらみつけている。
 長次郎が、あめやの屋号をつかって、夕焼けのごとき赤でも、玉のごとき碧でも、自在に色をつけられるからである。
明国からわたってきた父が、その調合法を知っていた。
 しかし、父は、長次郎に製法を教えなかった。なんども失敗をくり返し、長次郎はじぶんで新しい釉薬をつくりあげた。
 なんども失敗を繰り返し、長次郎はじぶんで新しい釉薬をつくりあげた。
 長次郎の子も、窯場ではたらいているが、釉薬の調合法を教えるつもりはない。
 ・・一子相伝にあぐらをかいたら、人間甘えたになる。家はそこでおしまいや。
 父祖伝来の秘伝に安住していては、人間は成長しない。代々の一人ひとりが、創業のきびしさを知るべきである・・。それが父の教えだった。
 まだぬくもりの残る窯のなかから、弟子たちがつぎつぎと飾り瓦を運び出してくる。
 いずれも高さ一尺ばかり。
 できばえは文句なしにみごとである。
 龍のつかむところに雲があり、虎のにらむところに魔物がいるようだ。
 得意な獅子も焼いた。
 造形もうまくいったが、赤い釉薬がことのほかいい。
 冬ながら、空は晴れて明るい陽射しが満ちている。
 その光を浴びて、獅子にかかった釉薬が銀色に反射した。
 「いい色だ」
 長次郎の背中で、太い声がひびいた。
 ふり返ると、大柄な老人がのぞき込んでいた。
 宗匠頭巾をかぶり、ゆったりした道服を着ている。真面目そうな顔の供をつれているところを見れば、怪しい者ではないらしい。
「なんや、あんた」
釜場には、まだ塀も柵もない。こんな見知らぬ人間が、かってに入ってくるようなら、すぐに塀で囲ったほうがいいと、長次郎はおもった。
 「ああご挨拶があとになってしまいました。わたしは千宗易という茶の湯の数寄者。長次郎殿の飾り瓦を見ましてな。頼みがあってやってまいりました」
 ていねいな物腰で、頭をさげている。
 長次郎は、宗易の名を聞いたことがある。関白秀吉につかえる茶頭で、このあいだ内裏に上がって、利休という勅号を賜ったと評判の男だ。
 「飾り瓦のことやったら、まずは、関白殿下がさきや。あんたも聚楽第に屋敷を建てるんやろうが、ほかにも大勢注文がある。順番を待ってもらわんとあかん」
 権勢を笠に着てごり押しするような男なら追い返そうと思ったが、老人は腰が低い。
 「いや、瓦のことではない。茶碗を焼いてもらおうと思ってたずねてきたのです」
 長次郎はすぐに首をふった。
 「いや、あなたに頼みたいと思ってやってきた。話を聞いてもらえませんか」
 話は穏やかだが、宗易という老人は、粘りのつよい話し方をした。
 ・・人間そのものは粘っこいのや。
 長次郎はそう感じながらも、宗易のたたずまいに惹かれた。
 ・・この爺さん、なんや得体が知れん。
 ただそこに立っているだけなのに、釜場の空気がひき締まるような、不思議な重みがある。
 ・・よほどの数寄者にちがいない。
 長次郎の直観が、そうささやいている。
 「窯出しが終わったら、お話をうかがいましょ。それで、よろしいか」
 「けっこうです。おや、あの虎は、とくにできがいい。天にむかって吠えている」
 いま弟子が窯から出してきたばかりの虎は、ずらっとならんでいるなかでも、いちばんよいできである。
 長次郎は、宗易の目利きのするどさに驚いた。

2014/05/04 (日) 無題

 2001年に出版した宮本輝の小説に「森のなかの海」があって、これは1995年1月に起こった阪神淡路大震災という未曽有の災害を経験した者の物語。
 上下巻で773頁のぶ厚い本でまだ読了に至ってはいないが、ぼくの65年間の生活のうち金津町生活でなかったのが阪神間生活(6年間)ということもあって、小説に出てくる様々の場所に思い入れが深く、連休中に読み切ってしまうつもりだ。

2014/05/03 (土) 新緑の候

 新緑のこの季節に映える百人一首と言えば次の歌だろう

 春過ぎて 夏来にけらし白妙の 衣干すてふ 天の香具山  (持統天皇

 誰だったかの解説で、「この歌は原本(万葉集)と違う」と読んだ記憶がある。即ち原本は
春過ぎて 夏来にけらし白妙の 衣干したり 天の香具山 で、だとすると持統天皇は眼前に見える香具山の風景を詠んでいることになる。
 しかし、衣干すてふでは伝聞を歌っていることになり、眼前に白妙の衣は見えない。ぼくには百人一首の方が、時間の流れのなかにいて古(いにしえ)を偲ぶ持統天皇の姿がみえるようで素敵だ。 

 加えて言うならば、洗いざらしの白妙の衣が、純真無垢という現生では皆無となったイメージを体現していて、読者の心を洗う力をもっていると思う。
 それはともかく
 きょうは、DVDで「山本五十六」を観ていた。久しぶりのDVDだが退屈ではなかった。山本長官扮する役所広治の寡黙さがいい。短いセリフと表情だけで五十六を演じている。あるひとが「究極の雄弁は徹底した沈黙」とぼくに言ったが、昨年6月に軟派から硬派に衣替えして言い寄る女たちを無視する(除数人)生活に入って十か月を経過した現在、この言葉の意味が理解できるようになった。

 山本長官は「対米開戦に一番反対し、しかし結局はその戦争を指揮しなければならなくなった男」として有名だが、真珠湾攻撃から比較的早い頃に、ブーゲンビルに飛行機で視察に赴く途中、米軍機に撃墜され命を落とす。
 その時点での太平洋戦争における死者数は、昭和20年8月15日までの計数百万という死者数に比して10%程度だったのである。

2014/05/02 (金) ちょっと思ったこと

 人と顔を合わせず仕事部屋に閉じこもってCADに向き合うか小説を読んでいるかだけで過ぎてゆく生活は自分流を維持出来るという意味で確かにいいものだが、一日一度くらいは外の空気に触れないと欝気味になるのも又確かだ。

 その意味で昨日の夕刻に知人が入ってきた時には、しゃばの空気が流れ込んできたみたいでほっとしたし、日頃の無口に似合わず饒舌にもなった。
 来訪者が、「牧田くんの話はどこまでが事実でどこからが妄想なのかよくわからない」と突然言うので、ぼくはドキッとした。 

 三木卓は、「人はおそらく人生の大部分を妄想に費やして生きているはずである。妄想こそ意識だというべきだし生活だといっていい。ただ人は恥ずかしがって口を噤んでいるだけだ(馭者の秋)」と書いている。加えて小説ばかり読んでいる昨今のぼくには虚構と現実との境目がわからなくなってきている、というより、より心の襞に食い入る事柄だけが自分にとっての現実だと思うようになってきた。
                      

2014/05/01 (木) きょうから5月

 本格的に風邪をひいて、喉の痛みにあえいだ昨晩だったが、今朝になってようやく楽になった。
 その昨晩に「わちらの会」のKくんが来てハーモニカの夕べ」の打ち合わせをこなした。
 みなさん、是非きてください。千円で緑の彩風を1時間半あじわえるのは絶対にお得です。

 喉の痛みで眠れないぼくは中島道子著「怨念の絵師・岩佐又兵衛」を読んでいた。又兵衛は荒木村重の子だ。荒木は信長に刃向かったことで、一族郎党を火あぶり斬首で失った戦国大名だが、又兵衛だけがその修羅場から逃れることができた。
本来なら武士の子として、お家再興に奔走すべきなのだが、幼少時から絵に興味を持ち、特異な才能を発揮した又兵衛は、刀を絵筆に変えた。
 又兵衛は男盛りの頃に心願の手引きで越前にやってくる。そして松平藩二代藩主・忠直との間に運命の赤い糸が結ばれるのである。
「・・忠直から仕掛けられた縛が、日に日に体に食い込んでくる。
(呆けを気取っていられるか・・・)
そう思えば思うほど、忠直の悲しみと反骨がいとおしいほど身に沁みる。
祖父家康という強大な権力者から曲げられた父の怨みを、そのまま受け継いだ忠直である。
それを妻にも重臣にも語ることも出来ず、ひたすらあぶれで抵抗している。
それはとりもなおさず若き日の又兵衛でもあったのだ。
(その愛憎を何で表現るか)
又兵衛は悶々とした。・・」